2012年6月4日月曜日



あっという間に最終日。
プラカの朝食もこれが最後・・・。

フライトは夕方なのですが、ストもあるため念のためタクシーは12時半に手配中。

アテネにいてまだ全く観光をしていないので、今日が観光の日!

遺跡に行くには早朝が一番という鉄則通り、入場できる8時には古代アゴラに行きました。

その前に、最後の望みをかけホテル近くのモナスティラキ駅にストチェック!

だめなものはやっぱりだめでしたー

さて、アテネの観光地は有名なパルテノン神殿に入るのに12ユーロかかりますが、これが共通券となっており、3日以内なら近くの遺跡群に入場できる仕組みになっています。

2012年6月2日土曜日


今年は、銀座と表参道のチョコレートパトロールまでして、史上最高に盛り上がった私です(笑)

でも、ダーリンはといえば、

「バーボン1本くれたら、ホワイトデーにテオブロマのトリュフを返してあげよう」と言ってます。。

うちでは、チョコレートといえば私の食べ物なのだ(笑)

だから、わたしが物色して買ったものは、ほぼほぼ、私が食べることになるでしょう・・・。

そんなわけで、今年私がかったチョコレートを並べてみましょう。どれもプチプライス(500~1300円)

モロゾフのフォイ・ダムールのうさぎさんに、すっかりやられました~(発売当日2/1に、完食・・・)

2012年5月31日木曜日


経堂緑岡教会 〜暗闇と光〜

暗闇と光


(1)ファラオに対する侮辱

 いよいよ一連の災いの物語も終わりに近づいてまいりました。本日は、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」と11章の「最後の災い」と題された部分からメッセージを聞いてまいりましょう。
 いなごの災いの後、主はモーセに言われました。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じるほどにしなさい」(21節)。「闇が迫ってくる」という表現がありますが、「手で感じることができるほどの闇」というのは、何かとてもリアルな表現であると思います。神様の言われた通り、モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土は暗闇に包まれました。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできませんでした。昼に日の光がないだけではなく、夜も月の光、星の光すらなかったということでしょう。一方で、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光がありました。
 この暗闇の災いというのは、ファラオに対するこの上ない侮辱でありました。ファラオは、太� �神アモン・レーの化身と考えられていたからです。エジプトの二大神というのがナイル川と太陽であったそうですが、一連の災いは、ナイル川を血に染めるという、ナイル川の威光に対する打撃で始まりました。今やもう一つの神として崇められている太陽に対してなされたというのは、そのようにファラオの威信をあざ笑うものでありました。

2012年5月20日日曜日


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2012年5月18日金曜日


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2012年5月16日水曜日


大久保にある豚肉の焼肉食べ放題店。サムギョプサルと呼ばれる、豚バラ肉を使った焼肉で、韓国の名物料理だ。

ぐるなびでのHPはコチラ。

最寄り駅は大久保もしくは新大久保。駅の北口を出て、大久保通りを西へ1分程歩いて行けばよい。

種類数は全部で10種程。種類数はあまり多くない。豚肉が6種類用意されているのはよいだろう。ただ、実際には、あまり味付けの差はなかった。

ノルマ制になっており、始めにシンプルな豚バラ肉が供される。それを食べ終えてから、他の種類を注文できるといった流れだ。

2012年5月14日月曜日


イースター島(Easter Island)- イスラ・デ・パスクア(Isla de Pascua)

南米大陸から3700km、タヒチから4000km離れた絶海の孤島。現地では現在「ラパヌイ」とも呼ばれ、「世界で一番遠い島」の異名を持つこの島には独自の文明が栄え、世界的に有名な石像建造物「モアイ」をはじめ、未だに解読されていない文字「ロンゴ・ロンゴ」、無数の岩絵を残した「鳥人儀式」等、他では見られない不思議で溢れている。18世紀にヨーロッパ人が「発見」するまでの記録がないため、その殆どは謎に包まれたままでとてもミステリアスな島である。周囲が60km弱と、とても小さな島だが、その中にモアイが約900体もある。その半数近く、約400体が集まるラノ・ララク(Rano Raraku)は必見。モアイの切り出し場として知られ、彫っている途中のものや完成して運び始めたもの等、今もそのままの状態で残されている。

2012年5月12日土曜日


(このテルエル県の略図をクリックすると画像が拡大されます)


(モラ駅周辺)

スペイン内戦の回想録「二十歳の戦争」の著者ミケル・シグアン(Miquel Siguan)氏は、1938年1月に100人ばかりの若い同期の召集兵と共にバルセローナ市近郊の訓練基地を出発し、列車でテルエル戦線に到着した時の印象をこう述べています。

「今朝目が覚めたとき、列車の窓から見た光景にぼくは驚いた。何度も目をこすったぐらいだ。この汽車の旅では、ずいぶん変化に富んだ風景を次々と見てきたが、これまで目にしたのはどれも耕作地であり、人が住んでいる土地だった。ところが、いま目の前に広がっているのは無人の荒野だ。木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である。ただのっぺりした平原が、これまた同じように一木一草も見当たらない裸の丘に囲まれているだけなのだ。」


(モラ駅舎)

「線路脇にかなり痛んだレンガ造りの建物があり、村の姿はどこにも見当たらないものの、残っている標識からそれがモラ村の駅らしい。近くを一本の道路が走っているが、それはまったく人気のない平原を一直線に延び、水平線のかなたに消えている。列車とぼくらだけが、このあたりで唯一の生命のしるしというわけだ。」 ………………………………………………………………………………………………
「人里離れた駅のプラットフォームに一団となって集まったぼくらは、まるでわずかばかりの身の回り品を抱えた移民の群れのようだ。」   (第一章「到着」)

テルエルの戦いから70年が過ぎた今年の春、私は「二十歳の戦争」の舞台となったテルエル県を訪ねてみました。この70年の間に開発が進み植林などが行われたということもあるのでしょうが、現地を見たかぎりではモラ駅周辺はたしかに依然として人気のないさびれた場所ではありますが、「木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である」という回想録の記述とは少し違うな、という印象でした。
或いはこの部分は、家族にもそして緑あふれる故郷のバルセローナにも別れを告げ、激しい戦いが続く冬のテルエル戦線に着いた時の、当時19歳だった著者の心象風景と理解すべきなのかも知れません。
モラ駅、正確にはモラ・デ・ルビエロス(Mora de Rubielos)駅は、町まで15キロ近くも離れている無人駅で、今でも駅の周りには2-3軒の家があるだけで、一日に何本かの列車が発着する時は別なのでしょうが、ふだんは本当に人影もなく、一匹の犬の姿すら見かけない、まことにさびれた雰囲気でした。


(Mora de Rubielos)

2012年5月11日金曜日


■必然と偶然
 今日は8月14日、終戦記念日。日本と連合国が戦った第二次世界大戦は、60年前のこの日に終わった。例年のごとく、テレビの特番がくまれ、あの戦争の悲惨な映像も放映された。ところが、地球規模の世界戦争であったにもかかわらず、風化はすすみ、かつて日本とアメリカが戦ったことを知らない高校生もいる。

 歴史には2つのタイプがあるように思える。原因と結果がはっきりしている、つまり必然。もう一つは、確率五分五分で、たまたまどちらかに転がった、つまり偶然。後者は歴史としては面白いが、前者を考えると、気が重くなる。逃れようのない「歴史の方程式」を感じるからだ。

 「歴史の方程式」は複数の数式と、多数の変数からなるが、たいてい、変数の方が多いので、そのままでは解けない。つまり、予測不能。それでも、起こってしまえば、全ての変数がわかるので、原因と結果も明らかになる。その時、歴史の因果律が読み取れるわけだ。では、第二次世界大戦は必然か偶然か?

 SFネタにあるように、タイムマシンに乗り込み、1889年4月20日のオーストリアの町ブラウナウに行き、ゆりかごの中のヒトラーを殺害してみたところで、第二次世界大戦は避けられなかっただろう。時間、場所、人物は違っても、似たような歴史がつづられたに違いない。ヒトラー1人に世界大戦の原因をなすりつけるには無理がある。それほど、第二次世界大戦は「必然」だったのである。

2012年5月10日木曜日



日本の資本主義社会の土台を築いたといわれる伊藤博文は、もともと貿易業を営んでいました。それが明治維新直後に、貿易業を三井に任せて自分は政治に専念しています。以後三井との二人三脚ぶりは随所に見られます。

1905年、伊藤博文は、第二次日韓条約を結んで、朝鮮を日本の保護国にしてしまいます。そして自ら統監となって朝鮮の完全支配を始めますが、1909年朝鮮独立運動の義士安重根によってハルピンで射殺されました。

軍備増強と国会議員買収

日本最初の侵略戦争ともいうべき日清戦争前後の時代、資料として面白いというかあきれた資料が残っています。伊藤博文の演説にもあるように、侵略戦争のために軍備増強を達成するためには、増税しなければなりません。その時点の首相は、山県有朋です。山県� ��閣は、国会に増税案を何度も上程するのですが、否決されます。

そこで山県は、反対派の国会議員を買収するために、議員の歳費を一挙に五倍に引き上げた上に、有力議員に直接買収資金を多額与えて、増税案を成立させました。

その買収資金を提供したのは天皇でした。当時のお金で98万円です。今のお金にしたら恐らく100億円以上のお金でしょう。

当時1000円で都心に一軒家が買えた時代ですから。このことが今私たちにわかるのは、このいきさつをみていた西園寺公望の日記が国会図書館に残されていて、その中に書かれていたからです。その中には

「首相の山県は、国会議員買収のため天皇から受け取った資金を、どうも一部自分の懐にいれているようだ」と書いています。現在の自民党幹部と同じですね。

しかし、天皇が何故こんな大金を出したのか、日清戦争で天皇がどれだけ儲けたかを見ればよく分かります。

日本は国家予算をふんだんに使って軍備を大増強して、日清戦争に勝ちました。日本は、清国から賠償を三億五千万円取ります。そのうち二千万円は天皇がもらっています。

当時国家予算が一億そこそこの時代ですから、国家予算の20%に値する金を、天皇は受け取っています。

そして、日清戦争に勝った日本は、台湾を植民地にしてしまいますが、その台湾の最大の産業の製糖業は三井物産が独占的に経営します。

天皇はその台湾製糖の第二位の株主になっています。台湾製糖の株の配当は10年後に12%、20年後には100%になっています。

しかも日清戦争に勝って、清国から国家予算の三倍の巨額の賠償 金を分捕って、これが日本資本主義経済発展の土台を築くことになったといわれています。これだけを見ても、侵略戦争・植民地獲得がいかに資本家にとって儲けにつながるかが分かります。

三井物産と満州事変

ここで一つ三井物産の企業活動と軍部との関係を表す実例をご紹介しておきましょう。

日露戦争後、日本が満州を獲得して、三井物産が大きく業績を発展させた一つの部門は大豆でした。"満州"は、世界的な大豆の産地でした。それを三井物産がほとんど独占的に買い占め、その油からマーガリンを造ってヨーロッパ諸国に輸出し、油粕は国内で肥料として売ることで大いに儲かっていました。

しかし1920年代になると、三井の大豆の取扱高が伸び悩んでいます。この時期の三井物産の支店長会議の議事録� �残っています。それには、「満州の軍閥張作霖が大豆の買い付けに手を出し始めたので困った」という趣旨のことが書かれています。

そのうえ張作霖は、日本が植民地支配の動脈のように利用していた満州鉄道に平行した独自の鉄道を計画して、着工を始めたのです。この鉄道が付設されてしまうと、日本の植民地経営には大きな打撃になります。鉄道工事が始まったその直後、張作霖は、関東軍によって列車ごと爆殺されてしまいました。これが1928年です。その翌1929年度の三井物産の大豆の取引高は倍近くに跳ね上がっています。

このような極端な数字は、ほかの要素も重なってのことかも知れませんが、日本の歴史書には、この張作霖の関東軍による爆殺事件は、只単に関東軍の仕業であるとしか出ていません。その後殺� �れた張作霖の息子、張学良が父親の遺志を継いで事業を始めようとしたとき、1931年、日本軍は満州事変を起こし、次いで中国本土へと戦線を拡大し、1932年には満州国を建国しています。

<中略>
次に経済学者から提供していただいた資料にもとづいて、日本の資本が第一次世界大戦でどれ程の利益をあげたか報告します。

大戦中の武器輸出の総額は二億九千万円。武器の主なもの、銃が93660梃。野砲弾丸410万発。駆逐艦12隻。戦艦2隻。
大戦中の対ヨーロッパ投資総額、約七億七千万円。

【第一次世界大戦と日本の経済発展】
   戦争開始時 戦争終結時

株価
100 246
輸出 5億9100万円 20億9800万円
輸入 5億9500万円 21億7300万円
利潤率 15.2% 57.8%
払込資本 24億5100万円 85億5100万円
三井物産 3.96万円 36.46万円
取扱高 4億5200万円 21億300万円

しかし、戦争をきっかけにして、鰻登りに発展した日本の企業の影で、日露戦争で日露双方合計23万人の人命が失われ、第一次世界大戦では、参戦した国の軍人802万人、民間人664万人の命が奪われたことを、そして日本に支配された台湾、朝鮮、中国の民衆に筆舌に尽くし難い苦難の歴史を忘れてはならないと思います。

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昭和天皇が2・26事件を起こさせた(?)本当の理由

ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。

2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。

 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

それは昭和天皇が、立憲君主では なく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。
 
2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。

昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。

そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。

 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。

本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。

1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。

また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。

驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。

塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。

記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。

「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」

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昭和天皇が日中戦争を起こした目的

【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク

北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。

ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中� �へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。

1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。

麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を� �やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。

日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕とな� �日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。� ��菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。

南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。

阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗 昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。

内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。

日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。
『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。

自民党「大物」政治家の資金源

 「小泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた大政翼賛会の政治家であり、安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である」という家系の意味するもの。

 1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。

 これは、1894年の日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長、後藤新平が、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して以来の日本の国策だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。

 戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
 4人の首相は、全員麻薬売買を中心的に担い、右翼の「大物」と言われる児玉誉士夫等は、むしろアヘン売買では「小物」であり、4人の首相が麻薬売買の中心に居た。

 中国における麻薬の売人が、戦後4人も日本で首相になった、その理由としては、アヘン売買の利益が敗戦とともに日本に持ち帰られ、自民党「大物」政治家の権力獲得資金源になって行った可能性が、極めて高い確率で考えられる。
 侵略戦争の中核に居た人物等の末裔が、現在、政治権力の中枢に居るのは偶然ではなく、彼等の活動資金の源に理由がある。

狂人達の世界帝国建設の夢

 1932年、中国に侵略を続ける日本軍は満州帝国を建国する。満州の運営資金は、事実上アヘン密売業者里見甫が全て出資し、表側の満州帝国総裁が後藤新平であれば、裏側の総裁が里見であった。
 里見は中国大陸全土に及ぶ自分のアヘン密売網を侵害する者がいれば、直ちに惨殺する殺人鬼であり、アヘン密売の利益を全て満州建国に注ぎ込む私利私欲の無い指導者として、日本軍部の軍人皆の恐怖と尊敬の的となった。

 また関東大震災の混乱に乗じ、戦争に反対するアナキスト大杉栄とその妻を絞殺した警察官甘粕正彦も、満州帝国の治安維持責任者となり、里見と共に帝国の治安を乱す者を容赦無く惨殺する殺人鬼として二人三脚で活躍した。
 一方、甘粕は満州鉄道映画製作部を指導し、「中国大陸の新しい帝国を舞台にしたロマンチックな映画」を製作する「ひ弱」でロマンチックな映画青年でもあった。


[社会][経済][政治]韓流の問題点

一芸能人のつぶやきが、波紋を呼んでいる。韓流に対する素朴な疑問でさえメディアやその関係者によって潰される今の日本は、中共の報道規制をバカには出来ない。

茂木健一郎「韓流のどこが悪い」 フジテレビ「不視聴」を批判 J-CASTニュース 7月30日(土)

茂木健一郎さんのツイッターから

 俳優の高岡蒼甫さんがツイッターで「8は今マジで見ない。 韓国のTV局かと思う事もしばしば」などと韓流コンテンツを推すテレビ局を批判する発言をしたことをきっかけに、ネット上の一部ではフジテレビ「不視聴」 の呼びかけが広まっていた。これに対し、脳科学者の茂木健一郎さんが2011年7月30日、ツイッターでこうした動きを批判した。

■「みんなフジテレビみろ!」

 ツイッターで茂木さんは「地上波テレビ批判と、これ(編注:テレビの不視聴)は別。幼稚すぎる。韓流のどこが悪い。グローバリズムの時代だぜ。幼稚な自 国文化主義は、アホなだけでなく、日本をますます弱体化させるだけです」と持論を展開。次の投稿では「みんな、レベルの低いたわごとはいいから、猛勉強し ようよ。日本は、このままだと、三流国になるよ。いつわりの愛国主義、くだらない自己主張、誰もついてこない事大主義、ぜんぶ捨てないと、もう愛する日本 はダメだ」などと主張した。別の投稿で「みんなフジテレビみろ!」と述べてツイートをいったん切り上げた。

 これらの書き込みに対して、ネット上では「まあ一理ある。文句言うのはいいが自分達を高めないとあかん」という擁護意見もあるが、ほかの書き込みには 「韓流が悪いのではなく、韓流専門チャンネルか?というくらい韓流を流すことに(高岡は)批判しているんですよ。論点がずれていると思います」「(韓流コ ンテンツばかりの)ごり押しが嫌なだけであって自国文化主義とは関係ない」「ヒストリーチャンネルぐらい見ごたえがあればいいんだが」といった反論も出 た。

 これらを受けて、7月30日夕方、茂木さんは再びツイッターを更新。「高岡蒼甫さんの発言については、私は一切言及していません」としたうえで、「ぼく がよく理解できないのは、『韓流』を『フジテレビ』が『ごり押し』しているという感情が、一部の人たちの間に非常に強いらしいということ」だと指摘した。

■「好まない人は見なければいいだけの話」

  「ぼくは、民放というものは、基本的に経済原則で動いていると思っているので、いわゆる『韓流ブーム』の中での編成をしているだけのことではないでしょうか?」

 今の民放テレビ局は、ケーブルテレビやインターネットを含めた競争の中にあるから、「(たとえ)あるコンテンツを『押しつけている』というのが事実だと しても、それを好まない人は見なければいいだけの話」だといい、選択肢のひとつとして選ぶ自由があるはずだと書いている。また、「みんなフジテレビみ ろ!」という書き込みについては、「『不視聴運動』に対しての『対義語』のようなもの。テレビを見る、みないは、それぞれの人の自由なのは当たり前」だと 説明している。

 なお、今回の「高岡発言」騒動は2011年7月23日、高岡さんが自身のツイッターに「8は今マジで見ない。 韓国のTV局かと思う事もしばしば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど」と書き込んだことからはじまった。7月28日には所属事務所を退社した ことを明かし、同じ日には「正直役者をやる事はもう諦めてるかな」とツイッターで打ち明けている。翌29日には、突如ブログを立ち上げ、これまでの俳優人 生や今回の騒動の経緯を説明。ブログは自殺未遂や心の病気を告白するなど壮絶な内容だった。

浜村淳がラジオ番組で高岡蒼甫を批判するも、韓流絶賛で逆に反発の声 J-CASTニュース 2011/7/30 

メディア擁護派、即ち韓国利権関係者やメディアに洗脳された人間による論点のすり替えや的外れな反論は、以下に代表される。


  • 「韓流以上の人気と実力を持てば良い」
  • 「日韓友好を阻害するな」
  • 「韓国を差別するな」
  • 「韓流が嫌なら、見なければいい」
  • 「韓流ばかりではない」

◆まずは、「韓流以上の人気と実力を持てば良い」だが、これは"本当のブーム"であればとの条件が絶対に必要となる。

しかしながら、最近の出来事だけをみても、偽物のブームとの結論しか出ない。

当日記内関連記事:ブーム

2012年5月8日火曜日


「高齢化をとらえる上で重要なポイントは、長生きすることよりも、より幸せに生きるという視点を持つことだ。・・・隔離された高齢者の世界を形作るのは魅力的な選択ではない。・・・生涯で60−70年におよぶかもしれない勤労期間において3つか4つの異なる職種に就けるような制度が必要だろう」。(J・カフリン)

2012年5月6日日曜日


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2012年5月4日金曜日



●ところで、ヒトラーの国家的な健康管理は、想像以上の効果をあげていた。

当時のドイツの医学雑誌は、食物や飲み物の中の人工着色剤や防腐剤の悪影響について警告し、薬品、化粧品、肥料、食物についても、有機的で自然な素材のものに戻るように力説していた。ヒトラーの侍医であったテオドール・モレルは、殺虫剤のDDTは無効であるばかりか危険であると断言し、健康に対する脅威であるという理由で、1943年まで配布を延ばさせた。また、ナチスは党の事務所や待合室など、公共の場での喫煙を禁止した。

特効薬や抗生物質がまだ見つかっていなかったこの時代、日本人の多くは当然のように結核や感染症で死んでいったが、ナチス・ドイツは保健事業による公衆衛生の向上で、既に感染症を克服していたのである。

 


ナチスが作成した
反タバコ運動のポスター

ナチスは世界最大規模の反タバコ運動を
展開して、タバコの撲滅を目指した。
ナチスは党の事務所や待合室など、
公共の場での喫煙を禁止した。

 

●更にヒトラーの国内での人気を高めたのは、経済政策と並ぶ対外政策の成功であった。

ヒトラーはまず1933年10月、国際連盟と軍縮会議から脱退する。ヒトラーは言う、「いかなる権利も平等も持たないこのような機構の一員として名を連ねることは、名誉を重んじる6500万人の国民とその政府にとって、耐え難い屈辱である」と。
 
国際社会に背を向けるこの外交的ギャンブルは、しかし、第一次世界大戦の敗戦国としてベルサイユ平和条約の過酷な条件に屈辱感を抱き続けてきた国民を熱狂させた。


●20世紀最大の哲学者の一人として名高いマルティン・ハイデガーは、学生に語っている。

「総統をして国際連盟脱退に踏み切らせたものは、野心でも、激情でも、盲目的な我執でも、暴力への欲求でもない。それはドイツ国民の運命を支配するにあたって無条件に責任を負おうとする明白な願望以外の何物でもない。」

この世界的な哲学者は、ヒトラーを賞賛し、ナチスへの共感を積極的に表明した。彼は1933年にナチスの後ろ盾でフライブルク大学の学長に就任すると、ナチスに入党。大学からユダヤ人を排除した。(ハイデガーは1945年のナチ崩壊に至るまで一度も欠かすことなく党費を納め続けていた。彼の党員番号は第3125894番である)。

彼は戦後になってからも、かつての言動を反省する様子を見せず、ユダヤ人虐殺の惨事にも終始黙否し続け、厳しく糾弾された。なぜハイデガーがヒトラーに荷担したのか? 学問レベルでの論争もいまだに続いているが、ハイデガーとナチスをめぐる謎は明らかにされてはいない。

 


20世紀最大の哲学者の一人
マルティン・ハイデガー

ナチスに入党し、ヒトラーを賞賛。
ナチスへの共感を積極的に表明した。

 

●1935年春には、それまで国際連盟の管理下にあったザール地方が、住民投票で91%の賛成を得てドイツに復帰。

更に翌年にはラインラントの無血占領に成功。そして1938年には、オーストリア国民の圧倒的支持を受けてのオーストリア合併に成功。そしてその半年後にズデーテン地方を併合した。

このようにヒトラーは、わずか3年のうちに、ヨーロッパのドイツ語圏の全ての地域を手に入れてしまったのだ。しかもその領土拡大は、背後に常に戦争の危険をはらみながら、全く無血のうちに行なわれた。フランスやイギリスは、専門家の誰もが予想した武力介入を一切行なわず、むしろ暗黙の了解を与えてしまったのである。

 

2012年5月2日水曜日


【11月28日 AFP】スーダン南部ジョングレイ(Jonglei)州に暮らすアルアル(Alual Koch)さんが銃を使って人を殺すことを覚えたのは、13歳の時だった。36歳の今、スーダン内戦のゲリラ兵として活動した時期については無表情で振り返るアルアルさんだが、家族を支えるための現在の「闘い」に話が及ぶと、目から涙がこぼれ出す。

 21年に及ぶ内戦が2005年に包括和平合意に達したあと、アルアルさんは看守の職を得た。同じくゲリラ兵だった夫を戦争で失ったアルアルさんは、29人の親類や子どもたちを、500スーダンポンド(約2万1000円)というわずかな月給で養っていかなければならない。

2012年5月1日火曜日


第4章 ビジネスに必要な法律の基礎

この章では、ビジネスを展開していく上で必要になる法律に関して、簡単に紹介します。

1.ビジネス関連法の体系

【質問】
事業を運営するには様々な法律が関係してくると思いますが、どのような法律に留意すべきでしょうか。

ポイント

  • (1)会社経営に法律が必要な理由
  • (2)会社に関する法律の分類
  • (3)業務活動に関する法律例
  • (4)会社組織に関する法律例

アンサー

(1)会社経営に法律が必要な理由
我々は一定の秩序の中で社会を形成しなければなりません。各自が好き勝手に振る舞えば他の人の自由や生活が侵害されてしまう可能性が高くなります。人の内面には道徳心が存在し、それが無秩序を防止しているのも事実です。しかしそれだけでは人により、判断基準も異なるため、整理された共通のルールとして法律が、人の財産や権利を守り、秩序を維持するために必要になります。会社も法人として、法律的に人格が認められたものであり、様々な社会的活動を営む上で、法律と密接に関係してきます。
(2)会社に関する法律の分類

会社に関する法律は「業務活動に関する法律」と「会社組織に関する法律」とに分類できます。

次にそれぞれどのような法律を指しているのかについて例示します。

(3)業務活動に関する法律例
活動領域 主な関係法律(及び例)
公法(注1) 私法(注2) 社会法(注3)
労務 税法(所得税、地方税等) 民法、商法 労働基準法、健康保険法、男女雇用機会均等法
財務・経理 税法(法人税、地方税、登録免許税等) 商法、手形・小切手法、不動産登記法、民法 外為法
購買 税法(消費税、印紙税等) 民法、商法 下請代金支払遅延等防止法、独占禁止法
生産・研究開発   特許法、不正競争防止法 公害紛争処理法、環境基本法
販売 税法(消費税、印紙税) 民法、商法 不当景品表示防止法、訪問販売法
  • (注1)公法とは、法の規律を受ける当事者のうち、双方または一方が国家機関である場合の法律です。
  • (注2)私法とは、法の規律を受ける当事者の双方が私人に適用される場合の法律です。
  • (注3)社会法とは、社会の発展に伴い、社会的弱者の保護等、一定の見地から国家の積極的な干渉を根拠づける法律です。

以上、公法、私法、社会法の区分は必ずしも厳密なものではありません。

(4)会社組織に関する法律例
事項 主な関係法律例
設立 商法、民法、商業登記法、各種業法
機関 商法、民法、商業登記法
資金調達 商法、証券取引法、民法、工場抵当法、不動産登記法
計算 商法、証券取引法、法人税法
合併 商法、独占禁止法、商業登記法
倒産 商法、和議法、会社更生法、破産法、商業登記法
【アドバイスポイント】
会社経営には様々な法律が関係してきます。全てを独力でフォローするのは難しいので、必要に応じて専門家を活用する。

2.株式会社の機関構成

【質問】
株式会社の機関構成は、なぜ複雑になっているのでしょうか。

ポイント

  • (1)株式会社の根本原理(所有と経営の分離)
  • (2)機関の分化

アンサー

(1)株式会社の根本原理(所有と経営の分離)
株式会社制度は株式を発行して間接有限責任しか負わない多数の人間から出資を受けることができる法人です。一般的に多くの株主は日常的に集合して会社の運営に当たることは困難であり、また、会社経営を直接行う意思や能力を持たないので、会社経営を合理的に運営するという観点から、所有と経営の分離が行われます。会社の実質的な所有者である株主は、必要最低限のことを株主総会で決定し、会社の運営は他の機関に任せることとなります。
  実際にはオーナーが100%出資し、経営に当たるという所有と経営が一致するケースの方が多いと考えられますが、我が国の商法ではこのように上述のような考え方に立ち、所有と経営の分離に備えています。
(2)機関の分化
会社の機関を取締役に任せきりにしてしまうと権限が強大になり過ぎ、権限濫用のおそれが生じます。そこで監査役制度を設け、取締役の業務の執行が確保されることを制度的に準備しています。
  また、取締役が、取締役会の機能と代表取締役の機能に分化しています。業務を執行するには複数者の合意が必要ということであれば煩雑になり過ぎるため、代表取締役に業務執行の権限を与えています。しかし、慎重かつ適正な経営の確保の観点から取締役会という合議体を設置し、代表取締役の監督と一定の重要度を持つ意思決定については、取締役会の決定が必要とされています。

■株式会社の根本原理(所有と経営の分離)

■機関の分化

3.契約の成立

【質問】
口頭での約束しかしていないならば契約は成立したとはいえないと思うのですが、どうでしょうか。

ポイント

  • (1)契約とは?
  • (2)契約が成立する時点
  • (3)契約の成立要件
  • (4)契約の有効要件
  • (5)代理人との契約
  • (6)用語解説

アンサー

(1)契約とは?
契約とは、2人以上の当事者が合意することにより成立する法律行為(法によって行為者が希望する通りの法律的な効果が認められる行為)のことをいいます。
(2)契約が成立する時点
契約は双方意思の合致により成立します。文書による取り決めがない、いわゆる口約束でも契約は成立します。しかし、口約束だけでは「言った」、「言わない」、「約束した」、「約束していない」というトラブルに巻き込まれる可能性があるため、必要に応じて文書による契約書の作成をすることが重要となります。
(3)契約の成立要件

契約の存在が承認されるための要件を成立要件といいます。成立要件としては以下の3つが挙げられます。

2012年4月30日月曜日




※訳者注:開発陣は、プレイヤーの質問に、明確に否定で答えることはしないのが普通です。質問するからには、プレイヤーが関心がある内容であり、プレイヤーの関心を否定するわけにはいかないからです。しかし、実際は否定的な内容であることが多々あります。
たとえば、最初の「派閥の変更」についてですが、これは変更の可能性はほとんどないと言えます。次の「アイテムスタック」の問題も、可能性はほとんどゼロです。他の項目も同様のものがたくさんあります。
以上の点にご注意下さい。

Brekkee - こんばんは、Stratics House of Commons チャットにようこそ。今晩の私たちのゲストは、Ultima Online の開発者のみなさんです! 今晩の話題は「一般討論」です。この話題に関連したことだけ、答えられます。
Brekkee - 質問は[QT]Eldorian か [QT]zigzag に送って下さい。そうするためには、/query NICK とタイプして、ポップアップするウィンドウの中に質問をタイプします。私や開発者に直接質問を送っても、回答待ちの順番に入りませんよ。チャットの全記録は、チャットが終わって間もなく Stratics House of Commons に掲載されます。
Brekkee - まず、開発者たちの簡単な自己紹介から始めましょう。もう、質問を送って下さって構いません。
Wilki_EA - やあ、みんな、私は Wilki だ。UO のコミュニティ・コーディネーターだよ。今晩は来てくれてどうもありがとう!
PurpleTurtle - みんな、ハロー
Serado - やあ、みんな、Serado はここにいるよ
Ando - ハロー、QA チームの Ando だよ
PurpleTurtle - 私はカメを2匹持っているのよ
Niobe - やあ、みんな、デザイナーの Niobe よ
Draconi - ハイ! Draconi だよ。UO のもう一人のデザイナーだ。みんなに会えてうれしいね!
JIB - こんにちは、僕は JIB でエンジニアだ。うわっと・・・
PurpleTurtle - 私は UO の開発者よ、ここでみんなに会えてうれしいわ
Serado - 僕は Ando と同じ QA チームだ

派閥の変更について
Brekkee - *Creed* 僕の質問は、近い将来派閥に何らかの変更はあるかな? もしあるなら、何かヒントはもらえる?
Wilki_EA - 我々は、派閥を再び活性化する変更について最近話し合ったばかりだ。しかし、目下のところ、決まったプランはないね。今は PvP の問題と、もう少ししたら皆さんにも知らせることができるいくつかのプロジェクトに集中しなくちゃいけない。派閥の問題に取り組むとしたらその後になるだろう。しかし、それに取り組めるかどうか、取り組めるとしたらいつになるか、ということについては、確かなことは言えない。

2012年4月28日土曜日


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2012年4月27日金曜日


ロシア連邦
Российская Федерация
国の標語: なし
国歌: ロシア連邦国歌
  1. ^ 連邦構成主体の各共和国は連邦公用語(ロシア語)とは別に、自らの公用語を定めうることが憲法で認められている。
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])

ロシア連邦(ロシアれんぽう、ロシア語: Российская Федерация)、またはロシアРоссия)は、ユーラシア大陸北部に位置する大統領制の共和制国家。東ヨーロッパに分類され、ロシア人が国民の多数を占める。首都はモスクワ。

世界最大の面積をもつ国土はヨーロッパとアジアにまたがり、北西から順にグリーンランド(デンマーク自治領)、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、ベラルーシ、リトアニア、ポーランド(リトアニア、ポーランドとの国境はバルト海とリトアニアに囲まれた飛び地領であるカリーニングラード州である)、ウクライナ、グルジア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中国、モンゴル、北朝鮮、日本、アメリカ、カナダと陸上または海上で国境を接し、北は北極海、東は太平洋に囲まれている。

なお、右図に示すロシアの領土(実効支配地域)は概ね国際的に承認されているが、日本政府は北方領土の領有権を主張し、それ以外の千島列島および南樺太は帰属未定としている。

正式名称はРоссийская Федерация(ラテン文字転写: Rossíjskaja Federácijaラスィーイスカヤ・フィヂラーツィヤ、IPA: [rɐˈsʲijskəjə fʲɪdʲɪˈratsɨjə]  発音ヘルプ / リンク)、またはРоссияRossíjaラスィーヤ[rɐˈsʲijə]  発音ヘルプ / リンク)。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている[1]。略称はРФ (RF)。

キリル文字のラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここにあげたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。

日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは,原則として「ア」と書く。」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる[2]。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は[3]。江戸時代にはオロシャをろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」及びモンゴル語のОрос(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議をうけた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると露(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更をあえて受け入れたことに当時の対ロシア観があらわれているとする見方もある[4]

ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、"ルーシの遺産の争い"をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。

ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語[5]はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」[6]現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」[7]と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」[8]という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家として独立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたこと等)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統� ��を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された[9]。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった[10]

[編集] 古代・中世

現在のロシア人は様々な民族の混血によって成立しているのでその起源をひとつに絞ることはできないが、国家や文化、言語の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していた。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン系の民族と隣接しており、言語や文化、習慣において大きな影響を受けた[11]。やがてその多くは同化し[12]、ほかの地域の東スラヴ人とは異なる独自の文化を築いていった。

北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている、民族系統不明の人々「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した[13]。後代に書かれた原初年代記[14]には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった[要出典]。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。

数多くいるルーシ諸公のひとりに過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られており、侮蔑を込めて「モスコーヴィヤ」(モスクワ地方)と呼ばれていた[要出典]。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威をないがしろにし、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはこともあろうにポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領するという売国行為に及んだのである。いっぽう、ツァーリ派の貴族や商人� ��ちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増していった。そしてついに1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮のもと、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日までにこれを一人残らず玉砕に追い込むことに成功、モスクワを解放したのであった。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の完全なる大勝利は、現在でも国民の祝日となって� ��るのである(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。

2012年4月25日水曜日


of or related to an amphitheater

円形競技場の、または、円形競技場に関する - 日本語WordNet

an entrance to an amphitheater or stadium

円形演技場やスタジアムへの入口 - 日本語WordNet

2012年4月24日火曜日


fuji_mikasaさん

ご質問は「史実の二回の攻撃に加えて、第三次攻撃を行っていたら」ということですね。
結論として、そのような攻撃は機動部隊そのものを危険に曝す結果になるので、史実の通りに「行わないのが正しい」と判定します。

残念ながら、南雲機動部隊の戦力で「工廠設備や燃料タンクの徹底破壊」は不可能です。
燃料タンクへの爆撃は史実でも行われておりますが、大規模な流出や火災は起きていません。重油タンクを完全破壊するのは容易なことではないのです。

そして、史実では奇襲になった第一次攻撃に比べて、第二次攻撃ではアメリカの迎撃体制が整い、熾烈な対空砲火でかなりの飛行機が撃墜され、また被弾して破損しております。アメリカの戦闘機も結構生き残っており、それによる被害も出ています。第� ��次攻撃で、かなりの米軍飛行機を地上で撃破しましたが、ハワイに配備されていた米軍戦闘機は半端な数ではなく、とても破壊し尽くせるものではありませんでした。
さらに、第二次攻撃隊が帰還した時には天候の悪化によって収容が難しくなっており、かなりの数の飛行機が着艦時に破損して飛べなくなったようです。

2012年4月22日日曜日


バレンシア (イベント・祭り)の旅行記 23

  • そういえば スペインby どこかへさん

    • エリア: バレンシア旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2011/12/21 - 2011/12/21(約4ヶ月前)投票数: 4

    200? 3/18 そういえば、バレンシア 過去の出来事 もう一度、youtubeで再生 もっと見る(写真3枚)

  • ぶらり気ままなスペイン 〜その6 バレンシアの火祭り"Fallas2011" (昼の部)〜by kawarinさん

    • エリア: バレンシア旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2011/03/19 - 2011/03/19(約1年前)投票数: 8

    良くも悪くも、 この旅行最大の思い出となったバレンシアのファジャス。 異国の夜の祭りという事と利便性で ツアーに参加させていただきました。 結果、バス発車の遅れで迷惑をおかけした同ツアー参加の皆様、 トラブルに的確に対処してくださり、 予定通りのバスをバルセロナに到着させていただいた 優秀にして偉大な現地ツアースタッフの皆様、 お詫びを申し上げるとともに、 本当に、本当にありがとうございました。 もっと見る(写真34枚)

  • ぶらり気ままなスペイン 〜その6 バレンシアの火祭り"Fallas 2011"(夜の部)〜by kawarinさん

    • エリア: バレンシア旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2011/03/19 - 2011/03/19(約1年前)投票数: 5

    いよいよ祭りのクライマックス。 次々とFallasが燃やされていきます。 大音響の花火と信じられないほどの大混雑。 外国人風の女軍団に揉みくちゃにされ、 定刻にバスに戻るのが難しくなりました。 行く予定をたてている方、 くれぐれもスリにはご用心! もっと見る(写真17枚)

  • Tomatina 2010by nurikoさん

    • エリア: バレンシア同行者: 友人旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2010/08/22 - 2010/08/30(約2年前)投票数: 7

    夏休みにスペイン留学中の友人に会いに行こうと、ガイドブックを何となく見ていたら偶然にも「トマト祭り」が旅行期間に重なり、「行きたい!!!」ということで参加しちゃいました! 世界の果てまでイッテQとか来ればいいのに〜なんて言っていたら、帰国後にやっぱり撮影に来ていたことを知りました。 お祭り男に会いたかった〜(笑) もっと見る(写真9枚)

  • 火祭りby ふーこさん

    • エリア: バレンシア同行者: 家族旅行旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2009/03/13 - 2009/03/21(約3年前)投票数: 3

    スペイン3大祭りのひとつ、バレンシアの火祭りを堪能しました♪ ファヤ見学以外にも、市街地も周りました。 もっと見る(写真8枚)

2012年4月21日土曜日


 A: the Stars and Stripes
アメリカ独立当初の13州と、現在の全50州を表している。

アメリカ国旗(the Flag of the United States of America)の通称は、the Stars and Stripes(星条旗)が最もよく使われます。そのほかに、the Star-Spangled Bannerなどとも呼ばれます。

2012年4月19日木曜日


なぜイスラムは近代とヨーロッパに反発するのか

 

なぜイスラムは近代とヨーロッパに反発するのか

 

講師 一橋大大学院教授

加藤 博 

平成17年9月13日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 



◆内容目次

はじめに

基調講演を始めるにあたって

第1章 イスラムをめぐるイデオロギー事情

(1)21世紀におけるイスラム

イスラム教徒の人口推移

イスラムの世界におけるアジアのウエイト

世界の人口の4分の1がイスラム教徒

キリスト教とイスラムの世界的な対峙

「文明の衝突」

「文明の衝突」への反論

イスラムへの高い評価

(2) イスラムと原理主義

世界新秩序とイスラム

チョムスキーのアメリカ文明批判

ユダヤ教、キリスト教、イスラムと続く一神教

原理主義を理解していない日本人

原理主義が浸透するアメリカとヨーロッパ

原理主義の定義

(3) イスラムと報道

歴史の中のイスラム世界

イスラム王朝が支配するユーラシア大陸

島国でイスラムと離れていた日本

オリエンタリズム

サイードのイスラム報道批判

イラク戦争における報道合戦

日本人独自のイスラム観が必要

(4) なぜイスラムは近代とヨーロッパに反発するのか ― トラウマとしての「近代」

イスラム教徒のトラウマ

第2章 イスラムとグローバリズム

(1) 新しい冷戦の時代?

祭政一致と政教分離

(2) イスラムと近代化

世界政治からみたイスラム世界

80年前のイスラム教徒の屈辱と恥辱

人工国家のイラク

原理主義と近代主義

近代化と西欧化

近代化を拒否する原理主義

(3) イスラムとグローバル化

イスラム主義

フランクフルト学派のイスラム主義解釈

アンチグローバリズム

時代が要請するイスラムの柔軟性

(4) 原風景としての「近代」

質疑応答

講師略歴


はじめに

 いまご紹介にあずかりました加藤です。始める前に一言私的なことを申し上げます。私の学生時代のことを思い出すと、一橋大学関係の行事でイスラムを取り上げる機会が作られ、私が基調講演と総括を行うようなことは考えられませんでしたので、非常に感慨深く思っています。私の先生はインド経済史の深沢宏先生でして、先生はこよなくインドを愛され、亡くなられたときにはインドの新聞にも訃報が載るぐらいの先生でした。54歳の若さで亡くなられました。

 その深沢先生の先生が村松祐次先生で、これまた学長代行までされた世界的に有名な中国経済の先生でした。このお二人は、今もって我々の世代においても、中国研究やインド研究においてはその名前が必ず出てくる大先生です。しかし、大先生が必ずしも自分の専門分野の弟子を持つことにはならないのが世の常のようで、村松先生のお弟子さんはインド史の深沢宏先生であり、深沢宏先生の弟子が私で、西アジアです。そのように、どんどん専門が西のほうに移っています。地球は丸いので、そのうち東のほうに戻ってくるのではないかと冗談半分に思っています。

 私が学部の学生の頃には、一橋大学には立派な経済史・経済事情を専攻する先生が大勢おられましたけれども、中東についての先生はおられませんでした。アラビア語など中東の言語講座は設けられておらず、全部独学でやらなければいけない状態でした。ただ私が一橋大学にいて幸せだなと思ったのは、その当時の村松先生や深沢先生はもちろんですけれども、その他のヨーロッパ史の先生たちもこぞって、「これからは中東、特にイスラムという宗教は決定的に重要な意味を持つようになる」という認識を持っておられたことです。そのため「中東やイスラムを専攻する研究者が一橋の中にいてほしい」と仰っておられました。

 私がその期待に応えられているかどうかはともかくとして、一橋大学は非常に世帯の小さな、共同体的な大学です。教員の人数が限られているため、専門分野の異なる多くの教員がいるわけではありません。しかし、それぞれの先生の専攻は中国や、インドや、東南アジアや、ヨーロッパであっても、問題関心を広く持って、自分の専攻する地域や国以外の世界で生じている事件に興味を持っておられました。そのため、当時の一橋大学には、「日本で最も足りない研究領域の一つがイスラム世界研究である」ということをよく理解されていた偉い先生が多くいたのです。このことが、私のような人間が曲がりなりにも、ここまで来られた最大の理由だと思っています。その一橋大学のOB会の如水会が、このようにイスラムを正面か� ��取り上げる講演会を企画してくれたということは、私にとってありがたく、名誉なことだと思っております。

基調講演を始めるにあたって

 さて、今日は基調講演ということですが、このフォーラムで講演をなさる先生方は、何を基調にすればいいのかよく分からないほど、専門も問題関心も、分析視角も、多様です。これらの先生方は、アカデミズム、外交、民間の企業と、働く場は違えども、イスラムやイスラム世界について一家言を持っておられます。おそらく、これほど充実したラインナップはそうないのではないかと思われます。

 イスラムは時間的にも空間的にも非常に多様に展開しており、同じイスラムといっても地域によって、あるいは領域によって様々な形をとっています。したがって、それぞれ一流の話ではあれ、先生方の講演において、多くの相反する意見に出くわすであろうと想像されます。そこで、この一連の講義が役に立つか否かは、聴き手の皆様がどれだけそうした違った形での発言を吸収し、自分なりにイスラム問題の核心をまとめ上げていけるかという、皆様の理解能力にかかっているのではないかという気がします(笑)。

 というわけですから、是非とも勉強をしてください。先生方は様々な地域、領域について、これから講義をなされます。今日、私は、最近イスラムについて私的に考えていることを話させていただくわけですが、少々理屈っぽい話になると思います。学者風の話となって、分かりづらいこともあろうかと思います。この点は、次回以降の先生たち講義で補ったり、敷衍したりしていただきたいと思っています。

 以上、長い前置きになりましたけれども、資料に基づいて、私の話を進めたいと思います。今日お配りした資料は、8月24日にエジプトへ調査旅行に発つ直前に、あわてふためいて事務のほうにメールで送ったものです。帰国したのが一昨日、9月11日でして、もう少し整理した形でお話ができるかと思っていたのですが、結局はあまり整理できないまま、先に旅立つ前に準備した資料に基づいて話を進めていくことにします。


第1章 イスラムをめぐるイデオロギー事情

(1) 21世紀におけるイスラム

イスラム教徒の人口推移

 お配りした資料(スライド)は少し見づらいかもしれませんが、この2つの統計資料から、私の話を始めようと思います。これは21世紀の人口動態に関して、世界の現実の一端を示す統計です。左側の表は、2000年現在と20年後の2025年における世界人口に占めるイスラム教徒の数を示しています。2000年時点で、世界のイスラム教徒数は約13億で、世界の総人口の約21%と推計されています。しかし、それから25年後、21世紀も四半世紀を過ぎた2025年には、イスラム教徒数は約20億で、世界の総人口の約25%になると予想されています。つまり世界の人口の4人に1人がイスラム教徒になるという勘定になります。これは私の友人の人口統計学者が推計したもので、現在の� ��口増加率を基準にしてシミュレートした数値です。

イスラムの世界におけるアジアのウエイト

 この統計資料からだけでも、いろいろなことが分かります。その1つが、世界におけるイスラム教徒の分布です。この表にある、南部中央アジアという言い方は非常に曖昧で、インド世界の南部アジアと中央アジア世界とはハッキリ分けて人口統計をとったほうがいいと思いますが、ともかく、この南部中央アジアに、イスラム教徒人口の40.2%が住んでいる。ついで、イスラム教徒人口の16.2%が東南アジアに住んでいます。

 このことから分かるように、イスラムの世界の人口分布に関して留意すべきことは、イスラムというとすぐに中東やアラブと考えられますが、多くのイスラム教徒が住んでいるのは、既に現在においても、南アジアや東南アジアだということです。したがって、現在まではイスラム研究というとアラブ研究が主流でしたが、恐らく21世紀のイスラム研究の中心はどんどん東に移っていき、インドや東南アジアのイスラムやイスラム教徒に関する研究が大きな意味を占めてくるであろうと思います。

 このアジアへのシフトは、世界政治経済の領域においても同じです。とりわけ、このことは、日本にとって重要な意味を持ちます。労働力の輸入を中心に、日本の社会において、南アジア、東南アジアとの付き合いは今後ますます緊密になっていくからです。その結果、イスラム問題が国内問題としても重要になってくるであろうと、容易に予想されます。

世界の人口の4分の1がイスラム教徒

 もう1つ、この統計資料から読み取れる重要なことは、2025年には世界人口の4分の1がイスラム教徒になるという事実です。そして残りの4人に1人が中国人、インド人ということになります。麻雀のプレーヤーにたとえると、ジャン卓の4つの椅子の3つに座るのは、中国人、インド人、イスラム教徒となります。そして残りの1つの椅子に、日本を含めたその他の人々が座るということになります。これは人口動態から見た21世紀の世界の現実であり、21世紀の世界を考えるとき、まず念頭に置かねばならない事実です。

 次に右側の統計数値ですが、これはキリスト教徒との比較におけるイスラム教徒の数です。2000年現在、キリスト教徒とイスラム教徒が世界の総人口に占める割合は、それぞれ約30%、約19%と推定されています。これに対して、今から20年後の2025年には、キリスト教徒が約25%、イスラム教徒が約30%になると予想されているのです。つまり、キリスト教徒のイスラム教徒に対する数的な優位は、20年後には逆転すると考えられているわけです。

キリスト教とイスラムの世界的な対峙

 この数的な優位の逆転は、日本人にとってはさしたる意味を持ちません。キリスト教が多いとか、イスラム教徒が多いとかいうことは、日本とは直接関係ない対岸の火事のように思えるからです。しかし、欧米の人々にとっては、決してそうではありません。19世紀の近代から今日まで世界をリードしてきたのは、疑いもなく欧米でした。その背景には、彼らの圧倒的な力の優位がありました。それは政治、軍事、経済、文化のすべての領域に及んでいましたが、彼らの自信の源には、自分たちの宗教であるキリスト教が普遍性を持っているという確信と、キリスト教の現実における世界規模での普及があったのです。それがいまやイスラムの拡張の前に脅かされようとしているわけです。

 資料の「文章1」を見てください。

 「21世紀は、ふたつの主要なかつ急激に増大しつつある世界宗教、キリスト教とイスラームの世界的な対峙と、西洋とそれ以外の地域との間の関係を緊張させるグローバリゼーションの威圧によって支配されるであろう」

 これはアメリカのジョージタウン大学教授で、「ムスリム・クリスチャン相互理解センター」の設立委員長ジョン・エスポイズィートの言葉です。このセンターは、イスラム教徒とキリスト教徒との間の相互理解を図ろうという目的で設立されました。彼は現在イスラム問題において最も影響力のある学者の一人です。

 その彼が、21世紀はキリスト教とイスラムの対峙の時代となるだろうと言っているわけです。ここでのキリスト教は、欧米とほとんど同義と考えられます。それゆえに、彼は、「21世紀は西洋とそれ以外の地域との間の緊張関係に支配される時代でもある」と述べています。彼は「ムスリム・クリスチャン相互理解センター」の設立委員長であったことが示すように、西洋とイスラムとの対立を強調するような「文明の衝突」論者ではありません。

「文明の衝突」

 この「文明の衝突」という議論は、ここにおられる方はほとんどご存じだと思いますので説明する必要もないでしょうが、アメリカのハーバード大学の政治学教授サミエル・ハンティントンが提起した議論で、その骨子は次のようなものでした。

 冷戦後の世界では、自由主義とか社会主義とかのイデオロギーではなく、宗教を核とした文明の帰属意識、難しい言葉で言えばアイデンティティによって統合や分裂のパターンがつくられつつある。世界に普遍的な文明が生まれるというのは楽天的な幻想であり、西洋のリベラルな民主主義を普遍的なものと思うのは西洋の考え方にしか過ぎない。他の文明圏から見れば、それは文化帝国主義、つまり西洋の考えの押しつけと見られる。とりわけ東アジアの経済成長とイスラム世界の人口急増によって、中国文明とイスラム文明の勢力が拡大し、儒教・イスラムコネクションも予想される。

2012年4月18日水曜日



 この辺のメンバーを集めたら、とにかく試合をこなしてレベルを上げていく。そのうえで、他チームの強い選手の中から契約解除者が出たら、すかさずスカウトしに行き、弱い選手と入れ換えしていこう。こうしてチームの底を上げていくのだ。

2012年4月16日月曜日


 

第5章 戦略本質主義の陥穽と戦略/戦術

 

1.「伝統の発明」から「文化の客体化」へ

 すでに触れたように、「伝統の発明」という言いかたは、1983年に刊行されたエリック・ホブズボウムとテレンス・レンジャーが編集した、イギリスの歴史家たちによる論集の題名『伝統の発明 The Invention of Tradition』(日本語訳の題名は『創られた伝統』)に由来している。ホブズボウムらは、19世紀以降(つまりナショナリズムの成立以降)に、儀礼や文化などの伝統が発明されるという現象が爆発的に起きていることに注目した。そして、その論集のなかのトレヴァー=ローパーの論文のように、スコットランドの伝統文化の象徴となっているタータン・チェックのキルト(スカート状の民族衣装)やバグパイプは、近代になってイングランドとの伝統の違いを強調するスコットランド・ナショナリズムによって捏造された伝統であるといった事実を暴き出したのである。

 ホブズボウムは、『伝統の発明』の序論において、近代のナショナリズムと結びついた「発明された伝統」と、いわゆる「伝統」社会における慣習(custom)とを区別し、慣習を「本物の伝統 genuine tradition」あるいは「生きた伝統」と呼びながら、「伝統の発明」と慣習のもつ強靭さや融通性とを混同してはならないと述べている。慣習は先例と調和していることを要求されるために実質的な限界が課せられてはいるが、革新や変化を許容するのであり、慣習の役割は、望まれる変化や逆に望まない革新に対する抵抗に対し、先例との連続性という表現を与える表明を与えることにある。ホブズボウムは、そのような例として、農民たちが「慣習」によってある共有地が村のものだと主張する場合、その多くは歴史的事実というより、王侯貴族や他の村に対する絶え間ない闘争におけるバランスとして表明されているという事例や、英国の労働者が労働運動において昔からの「商慣習」であるとして労働者の権利を守ろうとする場合、そ� ��は実際には昔からの伝統ではなく、最近になって労働者が実践のなかで定着させ、拡張したものであるという事例を挙げている。これらは、「伝統の発明」ではなく、融通性のある「慣習」、「本物の伝統」の例として挙げられているのである。

ホブズボウムらの「伝統の発明」論に対して、ニコラス・トーマスやマーガレット・ジョリー、ジョスリン・リネキンといったポストモダニズム的な構築主義にたつ人類学者たちは、ホブズボウムによる「発明された伝統」と「生きた本物の伝統」との区別を本質主義的なものだと批判している。たとえば、トーマスとジョリーはつぎのようにいっている。「ホブズボウムが行なっているように、無意識の文化的継承としての慣習を、現在のなかで意識的に過去を布告することとしての伝統から区別することができるのだろうか。ホブズボウムの見解においては、一方に、『未開の部族』や農村といった、慣習が優越している自然共同体があり、他方、民族や国家のような人為的な共同体のために伝統が意識的に創造さ� ��るということになる」[Jolly and Thomas 1992: 241]。また、太田好信氏も、おなじように、「ホブズボウム(……)は、『創りだされた伝統』と『旧来の伝統』を区別していることからも、前者には『真正さ』は欠けていると考えている。けれども、ここでは、彼の立場とは異なり、いかなる文化(ホブズボウムのいう『伝統』)も意識的な語りという客体化の過程をへて初めて他者にたいして可視的になるという認識から、ホブズボウムの主張する区別をここでは設けない」[太田 1998:254注(9)]と述べている。

 しかし、これらの批判は、ホブズボウムによる「発明された伝統」と「生きた伝統」の区別に当てはまらない。そもそも「本物の伝統」としての慣習は、「差異の連続体」ないし「差異の連鎖」として存在するものとされている。農民たちがある共有地を慣習に照らして村のものだと主張するとき、それは歴史的事実というよりも王侯貴族や他の村にたいする主張として提示されたものだとされていたように、ホブズボウムのいう「生きた伝統」あるいは「本物の伝統」は、他の地域や集団とのさまざまな交渉や相互関係によって変化する融通性のあるものとされているからである。それは、反本質主義者が本質主義として批判する文化のとらえかたとしているような、固定化された「不変の本質」とはずいぶん異な� ��ている。それは、ホブズボウムが近代の英国における労働運動の事例を例として挙げているように、「慣習が優越している自然共同体」において継承されたものでもないし、王侯貴族や他の村といった他者にたいする語りのなかではじめて可視化されるように、まったく客体化の過程をへていない実体としてとらえられているわけでもない。「客体化」という用語をつかうならば、ホブズボウムによる「真正さ」の区別は、客体化のモードのちがいなのである。

ホブズボウムの区別は、境界のあいまいな「差異の連続体」としてある「慣習」と、境界を固定されてその内部を同質化し、外部とはその違いを重複や曖昧さを排除して明確にすることによって「発明された伝統」とのあいだの区別であり、ギアーツによるネイションと原初的紐帯との区別に重なるものと言えるだろう。さらに、ホブズボウムが、生きた伝統と呼ぶ「慣習」の例として、農民たちの王侯貴族に対する闘争や、英国の労働者による労働運動を挙げていることからもわかるように、「発明された伝統」と「慣習」との区別は、エリート文化と民衆文化の区別とほとんど一致している。ただし、このエリート文化と民衆文化の区別は実体として区別されるわけではない。後で述べるように、それは「やりかた� ��の違いとして区別されるということである。ポストモダン人類学は、それらの区別をまとめて本質主義的だと批判しているわけだが、そのような区別、たとえば伝統の発明と慣習の融通性との区別を、真偽の区別としてのみとらえて退けてしまったとき、人類学は人類学にとって重要な区別を放棄したのだということが、本書で明らかにしたいことの一つであった。

ところで、発明された伝統というものがどういうものであるかを理解するには、現在ではよく使われるこの「伝統の発明」という表現が矛盾した言い方であることに注意することが重要である。この用語を使っている研究者たちもあまり意識していないようだが、この語法はレトリックでいう矛盾語法である。「伝統」といえば、昔からのやりかたを受け継ぐことである。それに対して、「発明」とは、今までなかった新しいものを創りだすことを意味する。とすれば、後になってから伝統になることはあっても、あるものごとをいきなり「伝統」として発明することなどありえないはずである。「伝統の発明」がこの矛盾をどのようにごまかしてそのような不可能なことを実現させているのか、これが「伝統の発明」� ��いうことを理解する鍵となる。

 では、捏造された伝統が人びとに自分たちの「伝統」として受けいれられるということが、どうして起こるのだろうか。それが可能となるには、人びとが上の世代から継承しているはずの伝統を知らないということが前提となるはずだが、そんなことがどうして起こりうるのだろうか。そして、なぜ近代になって、このような奇妙なことが可能となったのだろうか。

 ホブズボウムは慣習(カスタム)を「本物の伝統」としていたが、昔からやっているという理由で続けられると同時に、生活の便宜のためには変更されてしまうという融通性のある慣習は、たいてい守るべき「伝統」などとは意識されずに継承されたり変更されたりするものだろう。それが自分たちの「伝統」として意識されるには、他者との違いを自覚したうえで、その違いを徴づけるものとして、あるものごとを認識するという状況が必要となる。つまり、特定のものごとを自分たちの「伝統」と認識するということは、すでに他者との違いを自覚した意識的な行為であり、それを意識させる状況が近代になって生まれたのだということがいえるだろう。

しかし、それだけでは、新しく創りだされたものを自分たちの伝統として受けいれるということが起こる条件にはならない。自分たちの伝統というときの「自分たち」という共同体が、顔を合わせたり聞き及んだりする可能性のある範囲内のものであれば、だれかが新しい儀礼のやりかたやものごとを創りだして、それを「われわれの伝統だ」と主張しても、人びとにとってそれはいままで見たことも聞いたこともない「新しいもの」でしかなく、昔から続いている「伝統」として受けいれることはないだろう。いままで見たことも聞いたこともないものが、「自分たち」の伝統として受けいれられるには、その「自分たち」という共同体が、目で見たり耳で聞いたりする可能性の範囲を越えていること、いいかえれば� ��接的な関係の連鎖で作られる差異の連続体を超えていること、にもかかわらず、その具体的な関係性を超えた、その抽象的な空間が「自分たちの共同体」として明確に境界づけられていることが条件となる。そのような「想像の共同体」こそ、近代に創りだされたネイションだった。

 いいかえれば、〈顔〉のみえる関係性の連鎖のなかで見聞きする直接的な経験の範囲を越えた「自分たちの共同体」が「ネイション」として創られ、しかもそれが個別的で直接的な関係を媒介とせず、いきなり全体として現われる共同体になったとき、はじめて「伝統の発明」ということが可能となるのである。そのような「想像の共同体」がいったん成立すれば、自分たちの村や隣村、あるいは結婚などで移住してきた人たちが実際に行ったり見聞きしたりしていた慣習とは異なるやりかたが「日本」の正しい伝統だと教育やマスメディアによって教えられることで、自分たちが行ない見聞きしてきた慣習もそれとは少し違っている隣村の慣習も、実はネイションとしての「日本の伝統」とは違ったものだった――� ��まり、俺たちのやっていたことがおかしかったのだ――という認識が生まれてこよう。実際に慣習を正しい日本の伝統に直すということは、明治以降、日本各地の地域社会でなされたことだった。ようするに、ローカルな生活世界の「生きた伝統」(慣習)を発明することは不可能であるが(発明することが不可能な伝統をホブズボウムは「本物の伝統」と呼んだのであって、固定された不変のものをそう呼んだのではなかった)、ネイションという「想像の共同体」の伝統であれば、それまでだれも見たことも聞いたことがないものであっても、いきなり「伝統」として創りだすことができるし、それが「伝統」として通用しうるというわけである。ローカルな共同体で「発明された伝統」が受けいれられていく条件とは、そのローカ� �な共同体がすでに近代のネイションとその装置(地方の政府機関や学校やマスメディア)に包摂されているということなのである。

 こうして、「伝統の発明」などという、矛盾した不可思議なことがなぜ起こりうるのかという謎に答えをだすことができた。そして、それは、ネイションという想像の共同体における想像のスタイルと、それ以前の想像の共同体における想像のスタイルとの違いによって可能となるものであった。この想像のスタイルの違いは、ホブズボウムの「本物の伝統」としての慣習と「発明された伝統」の区別だけではなく、ギアーツのいう「原初的紐帯」とその受け皿にはなりえない「ネイション」との区別にもそのまま重なるものである。本書では、その違いを提喩的想像と換喩/隠喩的想像との違いといいかえ、提喩的な想像のスタイルによって生み出される民族や文化がツリー状構造をしているものととらえられてい� ��こと、そして換喩/隠喩的な想像で生み出されるまとまりがセミ・ラティス構造をしていることを指摘した。ポストモダン人類学における反本質主義は、それらの区別を無視するか、あるいはアンダーソンが「共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」と述べていたにもかかわらず、それを真偽の区別と解釈して、本質主義的な認識と一様に退けて、その重要性に気づかないでいたというわけである。

2012年4月13日金曜日


パパのいうことを聞きなさい!』(パパのいうことをききなさい!)は、集英社のスーパーダッシュ文庫よりリリースされた、松智洋のライトノベル。イラストはなかじまゆかが担当。略称は『パパ聞き!』。

2011年より、集英社各誌にて漫画化作品が連載中。また、2012年1月から同年3月までテレビアニメが放送された。

[編集] ストーリー

主人公・瀬川祐太は大学に入学し新生活をスタートさせたばかり。小学生の頃に両親と死に別れ、当時高校生だった姉・祐理に育てられるも、中学生の時にその姉がバツ2で2人の子持ちの男性・小鳥遊信吾と結婚。義兄となった信吾への嫉妬と姉の家庭と幸せを壊したくないという思いから姉夫婦の家庭とは距離を置き一人暮らしをしていた。そんなある日、姉がアパートに突然訪ねてきて半日だけ3人の娘たち(空、美羽、ひな)と共に留守番を頼まれる。渋々頼みを引き受けるが、そこで幸せそうな姉夫婦と子供たちの様子を垣間見、下らない子供染みた嫉妬心で姉家族と距離を置いてきたことを後悔し、今までの不義理を返し姉家族との関係を修復しようと決心する。

その矢先、姉夫婦の乗った飛行機が行方不明となり、姉夫婦は消息不明のまま政府発表では死亡したことになってしまう。残された3人の娘たちは親族会議の末、全員バラバラにされそうになるが、見かねた祐太は全員自分が引き取ると宣言し、自分が住む6畳一間のアパートで4人暮らしをスタートさせる。最初は慣れない家事や狭い部屋で問題ばかり起こったものの、やがて親戚にも認められた4人は、かつて3姉妹が信吾と祐理と暮らしていた元の家で暮らせるようになるのだった。


注意:以降の記述でパパのいうことを聞きなさい!に関する核心部分が明かされています。免責事項もお読みください。

2012年4月12日木曜日



「Can You Feel It」の日本語ヴァージョンを起用したコカコーラのCMが公開中のワン・ナイト・オンリー。バンドは間もなく<MTV VMAJ>で来日し、その後<Summer Sonic 2011>でパフォーマンス予定。2ndアルバム『ワン・ナイト・オンリー』のリリースも控え、一気に日本でブレイクしそうな予感の彼らをロンドンで直撃。フロントマンのジョージ・クレイグがアルバムや日本への想いについて語ってくれた。

──なぜ2作目にしてアルバムにセルフ・タイトルをつけたのですか?

 ジョージ・クレイグ:うん、1stをセルフ・タイトルにするバンドが多いよね? これが自分たちだ、これが俺らのやってることだって。でも、俺らが1st作ったときはまだ若くて、15歳のとき作った曲をバンと出しただけっていうか…、まだ自分たちのサウンドを模索している途中だった。でも2ndで、俺たち成長したし、ずっと作りたいと思っていたものが作れたっていう達成感や満足感があった。こうなりたいって思ってい たバンドになれたし、このアルバムのことを誇りに思っている。全部の曲が気に入っている。これが俺たちだ、これが俺たちのサウンドだって思うことができたんだ。俺らを象徴するものだから、ワン・ナイト・オンリーっていうセルフ・タイトルにしたんだよ。

──いま思い返すと、1stアルバムはどんな作品だったと?

ジョージ:すごく楽観的だったと思う。素で、あんまり深く考えてなかったし、その時々の瞬間をとらえていた。アップビートで楽しい、フレッシュなインディ・ポップの曲ばかりだ。

──今回はそれに比べると?

2012年4月10日火曜日


「羅針盤(磁気コンパス)について」 

  コンパスといえば航海に欠かせない用具のひとつで、現在では、電気で稼動するいわゆるジャイロコンパスが主流となっていますが、磁石による方位測定は時代が進んでも無視できないものです。
 磁気コンパスいわゆる羅針盤と火薬は中国の偉大な発明として知られているところですが、磁気コンパスの発祥の地は、イタリアのナポリ南東に位置するアマルフィとされています。
 現在アマルフィは、港もなくささやかな天然の湾があり、小さな防波堤のなかに数隻の漁船が、停泊しているだけの小さな村ですが、その中心地に、手にした磁気コンパスを見る発明者、フラビオ・ジョイアの銅像があります。
 ところが、フラビオ・ジョイアなる人物が、実在したという確固たる資料がなく、研究者の間でも本当に存在してい� ��のか謎とされているそうです。
 中国で発明されたものが、どうしてイタリアが発祥の地となり、また、コンパスのない時代の航海者はどのように針路をとっていたのか、磁気コンパスが歴史上どのような影響を与えたのかを 次項からお伝えしていきます。

2012年4月9日月曜日


今日は「スピードミントン」を紹介しました。

ご出演は、東京都大田区にあります 

NPO法人地域総合型スポーツ倶楽部ピボットフット理事 今田恵美さんです。

スピードミントンの歴史、概要を教えてください。

2003年にドイツで生まれました。スカッシュをやっていたドイツ人が、

このスピード感を生かしたまま、もっと広いところでやってみたいと

考案したスポーツです。ヨーロッパで広まり、翌年、アメリカに渡りました。

その後、日本に上陸したのは2005年のことです。

その頃には、ヨーロッパ大会も開催され、アメリカでもかなりの

競技人口がありました。日本に上陸したのと時を同じくして、

アジア各国に広まり、ヨーロッパと同じように、

小・中学校の授業に取り入れている国もあります。

日本では4年前(2007年4月)から都立蒲田高校の体験授業で

初めて教育の現場で取り上げられ、スピードミントンを希望した1年生が

週に1回(2時間)の授業を受けています。

また、上陸後すぐにNPO法人ピボットフットが

「スピードミントン教室」を開講し、現在までに30人以上の会員が

競技としてスピードミントンを楽しんでいます。

具体的にコートの広さ、使う用具の特徴などを教えてください。

コートは一辺が5.5mの正方形2つが、

12.8メートル離れて置かれています。ネットはありません。

自分のコートから相手のコートまでスピーダー

(バドミントンのシャトルに似たもの)をノーバウンドで打ち合います。

5.5mのコートを2つずつ並べて行うダブルスもあります。

使用するラケットはスカッシュ用のものと形が似ていますが、

長さが58cmと、小ぶりにできています。

2012年4月8日日曜日


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2012年4月6日金曜日


 当ブログでは支那事変をこれまで何回か扱った事があるが、その関係で中国の公開処刑に関して調べものをしていて、中国の斬首写真ばかりを集めて掲載している『Beheaded Art』というサイトに行き着いた。

 そのサイトのトップの解説文にはいささか捨て置けない事が書かれている。

BEHEADED ART
首のない芸術
BEHEADING

Beheaded Art is about public beheading. View more than 100 pictures and drawings of capital punishment by decapitation at Beheaded Art.

Beheadings in China or Japan (馘首) were often photo graphed by foreigners and this is where most of the execution photos available at Beheaded Art come from.

If you are offended by pictures of blood and death and decapitated (馘首) bodies – you might not enjoy this web site.

打ち首

『Beheaded Art』は公開斬首に関するものである。このサイトでは100点以上の断頭刑の写真と絵を見る事が出来る。

中国や日本の斬首 (馘首) はしばしば外国人によって撮影され、このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている。

もしこれらの写真の血まみれの斬首 (馘首) 死体で気分が悪くなる方はご遠慮頂きたい。

 このサイトには106枚の写真と21枚の絵が掲載されており、その写真の大半が中国や日本の首切り写真であるとの説明だが、見たところそれらは全て携帯用カメラが商品化された19世紀末以降の、清朝末期から辛亥革命 (1911)、そして上海クーデター (1927) 時に中国で撮影されたとみられる写真であり、日本の斬首と見られるものは見当たらない。

 ところがこのうち2点3枚が日本の長崎で撮影されたと説明されており、そしてタイトル (説明文) に「Japanese」の単語を含む写真が以下の4点5枚。


註:本エントリーでは写真の検証のため清朝時代の斬首写真を掲載しているため、好ましくないと感じる方はご遠慮下さい。なお残虐写真に関してはモザイク処理を行っており、全ての写真はクリックで無修正版がオリジナルサイズで見られるように設定している。

『Beheaded Art』のトップページは「full details」と「thumbnails」の二つのモードがページ下部のメニューで切り替えられるようになっており、「full details」の方で説明文が表示されるようになっているが、ブラウザによっては写真を読み込まないケースがあります。その場合は「Full details」専用のURLがあるのでそちらで試してみて下さい。

なお『Beheaded Art』の元サイトは本エントリー掲載の4点より遥かに残虐な写真も掲載されているため、訪問する方はご注意下さい。




 これは絵葉書上に赤文字で書かれているイタリア語では「北京」と書かれているのに、その英訳では「北京」が抜け落ちているためにまるで日本国内での処刑と誤解されるような書き方になっている。
 しかしここに写っているのは刀を持った2名以外はチャイナ帽 (清朝官帽) の清兵や頭にターバンを巻いたインド兵。
 絵葉書上部には中国語でも「北京東洋人殺頭」と書いてあるので、これは漢字の読めないサイト主がイタリア語から訳し忘れたか、意図的に「北京」を取り除いたかのどちらかとなる。

 上記2点が日本の長崎での撮影と説明されているもの。しかしここにも清兵やインド兵が写っている。


 これは撮影場所や時代の記述はなし。『Beheaded Art』にはこの写真と同じ時に撮影されたとみられる連続写真数枚が掲載されており、それらの写真で確認出来るのは群衆と死刑執行人は弁髪やチャイナ帽をかぶった清国人、ヨーロッパ人らしき兵隊が処刑見物をしているのと、建物の窓が中華式の格子窓であるという事。(連続写真に関しては本エントリー後半の写真の検証の項を参照)

諸条件から1900年の北京の北清事変における義和団の処刑写真と見られる

 これだけの条件が揃えば近代大陸史を知っている人ならすぐにピンと来るはずであるが、少なくとも写真1-3は1900年の北清事変 (義和団事件) で義和団鎮圧のために清国に派遣された大英帝国、アメリカ合衆国、帝政ロシア、フランス、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国、大日本帝国からなる八ヶ国連合軍が、8月14日に北京を陥落させた後の義和団掃討作戦における残党処刑の際に撮影された写真であり、写真4は兵士の服装からその年の冬に連合軍占領下の北京で撮影されたものと推定される。

 連合軍による義和団の掃討作戦は1900年9月に集中的に行われ、義和団の残党は連合軍側に寝返った清朝側に処刑をされ、これらの写真のように清国の兵士の立ち会いのもとで連合軍の将校が処刑を行ったケースもあったようである。

2012年4月5日木曜日


「文明化」という言葉は何を意味するのだろうか。これは明白なことだが、高等教育を受け、ネクタイを締め、フォークで食事をとり、週に一度手足の爪を切るだけでは「文明化」されているとは言えない。これらの形式的な作法を習得したからといって、その人々がまるで無教養に振舞うことがなくなるわけではなく、これは万人周知の事実である。「文明化」の本質はむしろ生活様式の相違を超えて他者の人間性を認識、受容することにあり、これは時代と地域を選ばない。

以上に述べたことは自明のようにも思えるが、普遍的に受け入れられているわけではない。また、文明間の対話という考えはおおむね好意的に論じられるが、冷笑の対象となることもしばしばである。たとえば、エリー・バーナビーが最近発表した論文「諸宗教の殺意」(Les religions meutrieres)の結論部分は「諸文明の対話に反して」と題され、彼は「一方に文明があり、もう一方に野蛮がある。この二つの間には対話の可能性などないのだ」と断言している。

2012年4月2日月曜日


【革命家】チェ・ゲバラ
1928年アルゼンチン生まれ。1959年のキューバ革命をカストロと共に成就させる。チェ・ゲバラの「チェ」とは、相手の親しみを込めて呼びかける際のアルゼンチンの言葉である。ゲバラは仲間から「チェ」と呼びかけられることが多く、それがそのまま愛称の一部になった。1967年ボリビア戦線で銃殺される。


キューバ革命の立役者といえば、誰もがチェ・ゲバラとカストロを思い浮かべるだろう。
しかし、この2人、共にキューバ革命を成功に導いた同志でありながら、その後の人生は大きく異なっている。

カストロは現在もキューバの首相として君臨している。彼には「世界一暗殺の危険にさらされている人物」という異名もあるが、そのカリスマ性と強靭な精神力によって、ことごとく危機を跳ね除けているように見える。
それに比べ、チェ・ゲバラは革命後、キューバを去り、1967年、ボリビアの山中で殺害された。

この差はどこにあるのか?
大きな理由の1つとして、「ゲバラはキューバ人ではなかった」ことが挙げられるだろう。

誤解されていることも多いが、ゲバラはアルゼンチン人であり、キューバ人ではない。カストロと共にキューバ革命を成就させたが、それは「祖国のため」の行為ではなかったの� ��。 このことはゲバラの人生に大きな影を落としている。

もし、彼がキューバ人であったなら、革命後はキューバの再建のために、すべての労力を注ぐことができただろう。

2012年4月1日日曜日


 あぁ昔の青年にはやりましたね。私も中学、60年前に出隆読みました。出隆は一回目はよく解らなかったけど。
 何度か読んでる内に、分かった気がしてきた。でも高校に入ってから漸く理解できたみたいでした。

2012年3月30日金曜日


11pt

だいぶ出ていますので、既出の回答への返答の様な形で書いてみたいと思います。

なにかのヒントになれば幸いです。

・あなたが死ぬことで悲しむ人がいるのでやめた方が良い

反対に、あなたが死ぬことで助かる人、ほっとする人もいるかもしれません。

大部分の人間は、自分がいじめられていたらいじめている人にはいなくなって欲しいと思うでしょう。

悲しむ人がいるのと同様に、喜ぶ人もいるでしょう。数の上で同じ、とまでは言いませんが。

・迷惑がかかるのでやめた方が良い

・誰にも影響を与えないのなら死んでも良い

これも上と同じ様なパターンですが、生きているだけでそもそも人は誰かに迷惑をかけ、影響を与えています。

完全に、誰にも、そして何にも影響を与えない自殺というのは不可能です。

2012年3月28日水曜日


サイトを運営していると、競合サイトの動向が気になってきますよね。

・競合サイトと比べて、アクセス数はどれぐらい違うのか?
・ターゲットのユーザー層(年齢・性別)は似通っているか?
・競合サイトは、SEOでどういったキーワードを狙っているのか?

これらのことが分かれば、自分のサイトの改善点も見えてきます。

敵を知り、己を知れば百戦危うからず

サイト運営は戦ではありませんが、競合がいるのも確かです。

競合相手となるサイトの実力を分析し、自分のサイトを客観的に判断する必要があります。

そこで今回は、あなたのサイトの競合はどこなのかを簡単に調べる方法をご紹介したいと思います。

サイトオーナーや、ウェブディレクター、マーケティング部門の方はヒントになると思うので是非、チェックしてみてください。

競合サイトがどこかを調べる

まずは、競合サイトはどこなのかを調べる必要があります。

SEO的に考えると、狙っているキーワードで検索して上位表示されるサイトが競合サイトにあたりますが、それだけではありません。

あなたのサイトを訪問しているユーザーは、他のよく似たサイトにも訪問しているはずです。

ユーザーの傾向を見て、競合となるサイトを知ることが必要です。

そんな時に便利なのが、DoubleClick Ad Plannerです。

DoubleClick Ad Plannerを使えば、指定したサイトのトラフィックやユーザー層などを分析することができます。

まず、DoubleClick Ad Plannerにアクセスして、自分のサイトのドメインを入力し、対象の国を選択します。

2012年3月26日月曜日


ユニコーン通信講座

著者:マーガレット・メリソン
CD音楽&日本語翻訳:山田朱美

ユニコーンたちが地球にやって来てからもう何百年にもなりますが、彼らはとても控え目な存在なので、それほど多くの人々の前に現れることがありませんでした。

ですが、私たちの世界の波動が上がり、人々のエネルギーが上がるにつれて、多くのユニコーンたちが、この変化の時に私たちを助けるために、その姿を人々の前に現し始めています。

この講座は神秘的なユニコーンに惹かれる人、彼らのエネルギーを感じたり、好奇心をかんじてもっと彼らのことを知り、彼らとつながりたいと願う人々のために創られた講座です。
そういった意図だけでなく、この人生で達成するべき自分の人生の目的や使命を知りたいと願う人も助けるでしょう。

2012年3月23日金曜日


オズの魔法使いが出版されて100年以上経った今も、世界中の子供たちは、この不思議な世界に取りつかれています。
ブロードウェーのミュージカルでは定番になっているし、関西の巨大テーマパーク「USJ」には、オズの魔法使いの小テーマパークが造られ、そのいちばん奥にあるエメラルドシアターの舞台では公演が行われました。


さらに劇団四季は、電通のバックアップによって、「ウィキッド」というミュージカルとして上演されていました。

オズの魔法使いに出てくるドロシーや、ブリキの木こり、かかし、ライオンといったキャラクターは、日本の子供たちに深く浸透しています。(最近の子供はどうですか)
しかし、その物語のシンプルさとは裏腹に、その奥には、神智学が吹き込まれており、とても難解で、ある特殊な人間にしか解らないような「オカルト奥義」とも言える恐ろしい真実が隠されているのです。
こうした寓話が、イルミナティ養成に使われているのですが、なんといっても、「オズの魔法使い」は、その筆頭に挙げられているものです。この物語には弁証法が使われているからです。
「不思議の国のアリス」、「赤頭巾ちゃん」、「ヘンゼルとグレーテル」、「白雪姫」… その他たくさん…。これらの寓話にも弁証法が使われており、同じくイルミナティの養成(つまり、マインド・コントロールにかける)に使われていると言います。

「オズの魔法使い」はオカルトのルーツ
The Occult Roots of The Wizard of Oz

ここからは、上のリンク先の記事に管理人が読みやすいように解釈を加えたものです。

オ ズの魔法使いの本質について、過去に多くの分析がなされましたが、その多くが大衆迎合主義の産物、とみなしていました。しかし、本当の意味は、もっとずっ と深いところにあるのです。作者の哲学的なバックグラウンドと信念を知ることによって、この物語の真の意味を知ることができます。

フランク・バウム(Lyman Frank Baum)
このオズの魔法使いの作者は、神智学協会のメンバーでした。神智学協会は、オカルトと宗教を比較研究する組織です。
※神智学協会は、魔女のマダム・ブラバッキーが創始したオカルト組織。詳しくは、【ルシファーが国連に入り込んだとき】を参照。

フ ランク・バウムは、記者や編集者、一時はセールスマンなど、さまざまな職を経験しました。特にアバディーン・サタデイ・パイオニア誌の編集者時代、読者に 神智学を紹介したり、仏陀、モハメッド、孔子、およびキリストに関する彼の見方を紹介したりしていました。そのときは、まだ神智学協会のメンバーではあり ませんでしたが、神秘的なものへの憧憬、哲学的素養はもともとあったようです。
後に、バウムは婦人とともにシカゴに移り、ここで神智学協会に入りました。
そして、1890年に、オズの魔法使いは出版されたのです。

神智学協会の中では、メンバーたちの間では「オズの魔法使い」がよく鑑賞されていたようです。1986年に、アメリカの神智学教徒向けのt雑誌は、「バウムは組織の哲学を徹底的に表した『注目に値する神智学徒』であると認めました。
つまり、バウムは、神智学協会のコンセプトを「オズの魔法使い」の物語の中に、シンボリズムとして埋め込んだ、ということです。神智学協会はオカルト組織であることを、ここで再確認しておきたいと思います。

バウムは、この物語を書くために、どんなインスピレーションを受けたのでしょう。
そして、この童話の難解な意味は何ですか?
この童話は「天来の霊感」としてバウムに降りてきたといいます。
その「天使」とは?

それは純粋なインスピレーションでした。
それは、"青いもの"から私のところにやってきたのです。
私は、それを受け取るための、ただの媒体に過ぎないのです。
「魔法の鍵」が、喜び、平和、幸福へのシンパシーや理解へのドアを開けてくれたと信じています。

2012年3月22日木曜日

当初、鳩山は不正を暴き出すと息巻いていたが、埃一つ出てこず、全くの空振りに終わった。マスコミは日本郵政の西川社長に対して、十分な説明責任を果たしていないと批判の矛先を向けていたが、お門違いも甚だしい。正当なプロセスを持って行われた入札という自由な経済行為の結果に対してそれ以上何の説明をしろというのか。要するに事の発端から今回の辞任劇に至るまで、鳩山邦夫の独り相撲に内閣もマスコミも国民も付き合わされ振り回されたことになる。

「正義は我にあり」捨てぜりふを残して閣外に去った鳩山邦夫

鳩山邦夫は、麻生太郎の盟友といわれていたようだが、「正義は自分にあり、総理は間違っている」と捨てぜりふを残して閣外に去った。このいきさつを見ると、麻生と鳩山の盟友関係といわれていたものも実は何の実体もなく、結局は坊ちゃん政治家同士のもたれ合いに過ぎなかったことが露呈した。鳩山のような独善的なお坊ちゃんと盟友関係を結べるのは、せいぜいがアルカイダの友達くらいなのだろう。
鳩山は自分の政治行動を「正義」という言葉を持ち出して正当化していたが、法律家や子供番組の着ぐるみヒーローならまだしも、政治家は安易にこんな言葉を振り回すべきではない。

2012年3月15日木曜日

ア行

愛無双(あいむそう)

I'm so Happyの略。移植元のjubeatでの一般的な略称である。


赤ヨロロ(あかよろろ)

MAX 300 (Super-Max-Me Mix)の通称、曲ジャケットが赤い事から付けられた。
ヨロロリミや赤MAXと呼ばれることもある。


足○○(あし○○)

足10、等のようにDDR内での難易度表記を表す際に使う。
DDR初代より難易度表示が足マークだったことから現在でも使用される。
DDR Xにおいて難易度表記が10段階表記から20段階表記になったため、
それ以前の10段階表記での難易度を表す際には「旧足10」のような表記がされる。


アフロ踏み(あふろふみ)

AFRONOVA(激)に代表される、体を横に向けて(横を向いて)交互踏みする踏み方。
正面を向いたまま踏もうとすると足がクロスしてしまうためそれを回避するために横を向く。
具体的な配置例としては「←↑→←↓→←↑→←↓→←」「←→↓←→↑←→↑←→↓←→←」等。

アンチ(あんち)

Anti-Matterの通称。高BPMと物量に物を言わせた体力譜面が特徴。


あんみつ(あんみつ)

少しずれている譜面、例えばスキップのような譜面を同時押しとみなして踏むこと。
由来はビートマニア2ndMIXの「Ska a go go」のラストの交互連打を同時押しでごまかして攻略したプレイヤーの名前。


アンリミ(あんりみ)

MAXX UNLIMITEDの通称。
MAX2でのボス曲であり、各難易度とも同時踏み絡みの厳しい配置が見られる。


石原(いしはら)

SABER WING(AKIRA ISHIHARA Headshot mix)の通称。
難解なソフラン・停止を含み、XではEXTRA STAGE専用曲として君臨した。
DPでは中盤の振回しがArrabiataを彷彿とさせることからイシハラータとも呼ばれる。


エタラブ(えたらぶ)

Fascination -eternal love mix-の通称。SNでのEXTRA STAGE曲。
2MB名義の楽曲で初出がACだったのはこの曲が初めてである。


鬼鯖(おにさば)

PARANOIA survivor MAXの鬼譜面の通称で体力譜面の王道と言われる。
初めてNOTE数が600台を超えた譜面であり、EXTREME当時では最難関とも言われた。
海外ではPSMO(PARANOIA survivor MAX Oni)の略称で呼ばれている。


オンバウ(おんばう)

on the bounceの略。AC版XでENCORE EXTRA STAGE曲として初登場した。
近年の隠し曲としては数少ない速度変化・停止が無い曲である。


オンブレ(おんぶれ)

On The Breakの略。こちらの頭文字は大文字が正式名称である。
AC版XでFINAL専用曲として初登場した。


カ行

該当スレ(がいとうすれ)

ここでいう該当スレは、バー持ち・ドカ踏み叩きスレの事を指す。
たまにこれらのスレの住人が色々なDDRスレにやって来て、煽り発言するから迷惑極まりない。
もし該当スレの住人が来ても無視するか、水遁するのが賢明。


化石厨(かせきちゅう)

勝手にDDRがもう古いと思い込んでおり、それをネタに煽ってくる人の事。
スルーか水遁が基本。


ガム曲(がむきょく)

登場・解禁された当時は選曲ランキングで上位に君臨していたが、
飽きられやすく冷めやすい曲の事を指す。
対義語:スルメ曲


君ニ幸アレ/君幸(きみにさちあれ/きみさち)

DEAD END -"GROOVE RADAR"SPECIAL-の通称。
CS版SuperNOVA2でのINFORMATION内曲紹介においてただ一言、「君ニ幸アレ。」とだけ書かれていることに由来する。
SN2ではグルーヴレーダーの各要素が最大値になっていたことから「ペンタエンド」とも。
そこから転じて「公式が病気」レベルの規格外な譜面を指していた
(MAXX UNLIMITED(X-Special)・CS版DDRXのPARANOiA MAX ~DIRTY MIX~(SMM Special)など)。
……そう、全ての譜面が過去になったあの曲までは。


キミのステップはREVOLUTIONだ(きみのすてっぷはれぼりゅーしょんだ)

DDRXのSTARTER MODE限定でプレイ出来る「HOW TO PLAY」において、
曲終了時に入るMC X(どう聞いてもSUPERSTAR 満)のセリフより。
元ネタは同社のゲーム「METALGEAR SOLID 3 Snake eater」のリボルバー・オセロットのセリフ。
なお、X2現在ではSTARTER MODE廃止に伴いプレイ不可能。
家庭用にも入っていないため、現時点ではXが今も稼働してるロケーションでしかプレイはできない。


着物(きもの)

KIMONO ♥ PRINCESSの通称。
曲調はもちろんの事、譜面からもjun(のドS)らしさが溢れ出る曲。SPは仮の姿。


逆ビジステップ(ぎゃくびじすてっぷ)

↑を軸として→↑←や←↑→のようなステップ。ビジステップの上下逆Ver。


キャンスト(きゃんすと)

CAN'T STOP FALLIN' IN LOVEの通称。
SP激譜面は体力譜面として有名かつ王道。
SPEED MIXは速キャンストなどと呼ばれる。


金セイバー(きんせいばー)

SABER WING(AKIRA ISHIHARA Headshot mix)の通称。
由来はバナーの文字が金色だったことから。
石原や石原セイバーと呼ばれる事が多いので最近ではあまり聞かなくなった。


銀セイバー(ぎんせいばー)

SABER WINGの通称。
由来はバナーの文字が銀色だったことから。


下駄(げた)

GET UP'N MOVEの通称。元は2ndMIXに収録された版権曲。
過去2度削除されたが、DDRXでは2008 X-editとして復活した。


コンボカッター(こんぼかったー)

FCを狙うに際して難所になる譜面箇所。
速度変化地帯に置かれたNOTEや同時踏み絡みの配置がコンボカッター化しやすい。


サ行

酢酸(さくさん)

Sakura Sunriseの略称だが、「サクラサン」と呼ばれる事の方が多い。


ザッファアアアアアアイ(ざっふぁあああああああい)

The legend of MAXの通称。曲中に流れる音声「The Fly!」から。
略称としては伝説の方が一般的に使われる事が多い。


鯖(さば)

PARANOIA survivorの通称。
PARANOIA survivor MAXは鯖MAXと呼ばれる。
しかし鬼鯖は鯖MAXの鬼譜面のみを指す(鯖に鬼譜面はないため)。

2012年3月13日火曜日

 ズーは本日(2011年7月1日),新作PCゲーム「ザ ファースト テンプラー 日本語版」(原題 The First Templar)を8月12日に発売すると発表した。価格は8000円(税込)。
 本作は,ブルガリアに本拠を置くHaemimont Gamesが開発したアクションアドベンチャー。プレイヤーはテンプル騎士団のセリアンとなり,13世紀後半のヨーロッパを舞台に,聖杯を求めて冒険を進めていく。

 本作の大きな特徴は,二人のキャラクターを切り替えつつ,さまざまな仕掛けや罠をクリアしていくという点だ。プレイヤーはセリアンのほか,その親友のローランまたは,高貴な家の娘であるマリーのいずれかを操作する(ゲームの進行により,いずれかが登場する)。
 謎解きだけでなく,各キャラのスキルやコンボ攻撃を駆使しての戦闘,コスチューム集めなども楽しい作品だ。


商品名:ザ ファースト テンプラー 日本語版
原題:The First Templar
言語:日本語
発売日:2011年8月12日
ROM:DVD-ROM 1枚
定価:8,000円(税込) / 7,619円(税別)
JAN:4937858771553
発売元:株式会社ズー
販売元:株式会社イーフロンティア
公式:

★ザ ファースト テンプラー
 高貴なテンプル騎士、セリアンと親友のローラン。そして、ひょんな事からローランの代わりにセリアンと行動を共にする事になるマリー。
 彼らの聖杯を探す旅は、ヨーロッパの田園地方から始まり、徐々にテンプル騎士団内部の陰謀に巻き込まれていきます。
 本製品は常にペアーで物語が進み、2人のキャラクターを切り替えて戦闘や仕掛けを解いていくアクション・アドベンチャー・ゲームです!

2012年3月12日月曜日


 赤ずきんちゃんほど世界中で愛され親しまれている少女が他にあるだろうか。この少女の物語を知らずにおとなになった人がいるとは思えない。多くの人びとがこの少女の魅力に憑かれ、研究者たちはその源を探り、分析医たちは解釈を試み、作家たちはそれぞれ自分なりにこの物語を書き換えた。
 わたしたちはどうしてこんなにもこの少女が好きなのだろう。ベッテルハイムはいう、「それは、赤ずきんがよい子で、しかも誘惑に弱いからだ」。そう、たしかに「よい子」でしかも「誘惑に弱い」から愛されるのだ。
 しかし、おそらく生まれてから三〇〇年以上経つこの少女は、その歴史を通じてつねに狩人(すなわち父親=大人=男性)によって保護されなくてはならない、かよわい女の子だったわけではない。民衆が生んだ最初の赤ずきんはもっと賢く、自分の力で自分の身を守った。それを、男が保護してやる必要のあるかよわい少女に仕立てあげたのはペローであり、グリムである。彼らがつくりあげた赤ずきん像は、この二〇〇年以上の間ほとんど変化せず、そっくりわれわれの抱くイメージに受け継がれているが、それは精神分析家がいうような普遍的な少女像なのだろうか。いやむしろペローの時代から現代にいたる「近代」という時代に特有の、女性や子どもにたいする偏見に裏打ちされたイメージなのではあるまいか。

 ところで� ��この少女には名前がない。メトニミックに「赤ずきん」と呼ばれている(正確にはペローの物語は『小さな赤い乗馬ずきん』、グリムのそれは『小さな赤い帽子』)。この「ずきん」は何なのか。どうしてそれは赤いのか。
 エーリッヒ・フロムがこの赤いずきんを月経の象徴であると断言したことはあまりに有名だ(『夢の精神分析----忘れられた言語』)。「このおとぎ話の象徴的意味を理解することはじつに簡単だ」と豪語するフロムによると、この物語は性の問題に当面した少女の物語である。「道草を食わないように」「瓶を割らないように」との警告は、処女を失わないようにという警告であり、残酷でずるい狼は男性の象徴である。性的行為は、狼による人食いとして描かれている。これは「男と性にたいする深い敵意� �表現」であり、狼は生きている人間を腹のなかに入れることによって、すなわち僭越にも妊婦の役を演じようとしたことによって処罰を受け、不妊の象徴である石によって殺される。この物語は、祖母、母、娘という女の三世代を代表する人物を中心をした「男性対女性の葛藤」の物語であり、「男を憎む女の凱歌」であり、女の勝利で結ばれる。

 フロムの『赤ずきん』分析は二ページにも満たない簡単なものだが、ブルーノ・ベッテルハイムは、フロイト派による昔話研究の金字塔ともいうべき『昔話の魔力』において、詳細にこの物語を論じている。
 彼は『ジャックとマメの木』を論じた章で、「昔話は、生きていく上でのさまざまな基本問題、中でも、成熟するための闘いから生まれる問題を、文学という形で扱う。そ して子どもが、一人の人間としてより高いレベルに到達し、責任を果たしうる自己を確率しないと、どういう恐ろしい結果になるかを警告する」と、昔話にたいする自分の基本的な見方を述べているが、『赤ずきん』が扱っているのも、「無意識ではエディプス的なつながりを断ち切れずにいる学齢期の少女が解決しなければならない問題」である。
 ベッテルハイムはこの物語のさまざまなモチーフについて、じつに興味深い指摘をしている。まず、親の家とおばあさんの家は、『ヘンゼルとグレーテル』における親の家と魔女の家と同様に、じつは同じ一つの家であり、それが心理的状況の違いから、別の家として経験されているのである。そしてヘンゼルとグレーテルはまだ口唇期に執着しているので、母親的人物(母親、魔女� �が重要な役割を演じるが、赤ずきんは口唇期を過ぎているので、母親もおばあさんも、赤ずきんを脅すことも保護することもできず、それにたいして父親像のほうが重要になっている。この父親像は誘惑者(狼)と救出者(狩人)の二つに分裂している。赤ずきんは「男性のパーソナリティのあらゆる側面にぶつかって、男性というものの矛盾した性質を理解しようとしている」。
 赤は、荒々しい性的情動を象徴する色であり、おばあさんが孫にずきんをあたえることは、「年上の女性が、男性にたいする彼女自身の魅力を放棄し、それを若い娘にゆずりわたすこと」であり、「性的魅力が、未成熟な相手に伝達されたこと」を象徴している。
 どうして赤ずきんは狼に、おばあさんの家がどこにあるのかを教えるのか。それは� �ずきんが無意識のうちに、おばあさん(=母親)をなきものにしようとしているからだ。
 また、狼はどうして赤ずきんと出会ったときに食べてしまわなかったのか。おばあさんの家のありかを聞きだしたのだから、後からおばあさんを食べてもよかったのではないか。ベッテルハイムはこう考えるべきだという。つまり、「赤ずきんを手に入れるためには、まずおばあさんを取りのぞいておかなければならない」のであり、「祖母(=母)がいる限り、赤ずきんは狼のものにはならない」。「邪魔な祖母(=母)がいなくなれば、母がいる間は抑圧されていたことが、なんでもできるように思える」。つまりこの物語は、「狼(=父親)に誘惑されたいという娘の願望」を扱っているのだ。
 狼は腹を引き裂かれただけでは死な� �、石を詰め込まれて死ぬ。昔話は人間の成長の物語なのだから、狩人(=父親)が狼を殺してはいけないのだ。実際、石を詰めることを提案するのは赤ずきんだ。また、子どもに出産にたいする不安をあたえないためでもある。「もし狼が、帝王切開のように腹を切り裂かれたのがもとで死ぬと、聞き手の子どもは、生まれる子どもが母親を殺すのではないかと思ってしまう」。
 ここまでくると、いささかこじつけめいているようにも思われるが、それはともかくとして、こうしたフロイト派の分析にたいし、ユングはどのように分析しているのだろうか。

 ユングはその『精神分析の理論』のなかで次のように述べている、「この[赤ずきんの]モチーフは世界じゅうにある無数の神話のモチーフであり、聖書のヨナの物語のモ� ��ーフである。このモチーフのすぐ下には宇宙神話的な意味が隠されている。太陽が海の怪物に呑みこまれ、朝ふたたび生まれる。もちろん宇宙神話というものはすべて、本質的には天体に投影された心理----無意識の心理に他ならない。[・・・]神話がたんに気象や天体の動きを説明するだけのために創られたとは考えられない。神話は何よりもまず、夢のような無意識的衝動のあらわれである。その衝動は無意識のなかの退行的リビドーによって発動される。表面にあらわれる素材は、いうまでもなく幼児期の素材、すなわち近親相姦コンプレックスと結びついた空想である。だから、いわゆる太陽神話のなかにはかならず、生殖、誕生、近親相姦的関係についての幼児的な理論化がみられるのだ。『赤ずきん』の話の場合、それは、母� �はなにか子どものようなものを食わなくてはならない、そして子どもは母親のからだを切り裂くことによって生まれてくる、というファンタジーである」。
 ユングは別の論文でも、『赤ずきん』では、神話に登場する「呑み込むもの」としての蛇あるいは魚が狼に置き換えられている(『変容の象徴』)とか、『赤ずきん』の狼は「呑み込む母親」という元型の表現である(『分析心理学と教育』)と述べている。このように夢や物語にあらわれたイメージを古代神話に還元するというのはユング心理学の本質的特徴であるが、『赤ずきん』解釈史の側からみると、このユングの解釈は、十九世紀後半から今世紀初頭にかけて数多く提出された神話的『赤ずきん』解釈の流れを引いたものである。そうした解釈においては、ずきんの� ��色が太陽あるいは光の象徴とされ、この昔話の起源は日の出と日没の神話である、とか、光すなわちキリスト教的善を呑み込もうとする闇の邪悪な力についてのマニ教の神話がもとになっている、といった仮説が提出された。むろんこうした仮説は、宗教の起源に関する仮説と同様に、永遠に立証されることなく仮説にとどまるしかないわけだが、今日の民話研究者たちは一応この仮説を否定しており、『赤ずきん』の原型は、中世末期頃に生まれ、十六、十七世紀まで、フランス、チロル、北イタリアに広く伝わっていた警告物語であると考えられている。ペローがそれを知っていたことは確実であり、彼はそれを上流階級向けに書き換えたのである。

2012年3月11日日曜日

ご訪問ありがとうございます。当ブログを管理しているトップがんと申します。

この夏は、オダギリジョー主演の『熱海の捜査官』にどっぷりとハマってしまい、気がつけば18本もの記事をアップしていました。
  ▽総括編 ・・・ 8記事
  ▽資料編 ・・・ 4記事
  ▽各話要点整理 ・・・6記事

  これらの記事を読んでいただけるのなら、下記の「記事一覧表」からどうぞ
   ◆ドラマ『熱海の捜査官』に関する当ブログ記事一覧
       記事URL:

この記事では、謎だらけの『熱海の捜査官』の中でも、とりわけ謎めいている平坂(風宮)とネット教団について考えてみました。

◆風宮について考えたこと

★風宮の日記の内容について
・ドラマでは、風宮は「自分は死んでいるのかもしれない」と日記に書き、「東雲から予想を遥かに超える答えを聞いた」と書いています。

・人体蘇生の人体実験をしたかった風宮が、「死後の世界を垣間見た経験」を持つ3人をさらっておきながら、「これからどうしたらいいのか見当もつかなかった」という状態に陥ってしまった原因が東雲との会話にあるのは明白です。

・このシーンのポイントは、以下の2点だと思います。
   "宮は、なぜ自分が死んでいるのでは?という疑念を抱いたのか?
   風宮は、なぜ東雲の記憶を操作したのか?
   I宮は、なぜ拉致した3人を眠らせたままにしておいたのか?
   ど宮の日記にある「研究者として踏み込んではならない所に来ている」の意味は?
   ド宮が「過去に犯した罪」とは何か?

・,砲弔い匿簑すると、風宮は「バス消失の際、私達全員がラインを越えた」といわれたのだと思います。南熱海が死者の国であれば、風宮が南熱海に来た時点で死んでいることになりますが、個人的にはその世界観(ドラマ上の設定)は正しくない気がするので、ここでは却下します。

・△砲弔い討蓮風宮が東雲の記憶を消して意識不明状態にしたのは、自分がバス消失事件を起こしたせいで黄泉の国へいかなくてはならなくなった東雲を助けるための時間稼ぎだったのではないでしょうか。

WYRDのひみつ

はてなダイアリーにトモきちの日記をつけ始めて30日が経過し、

晴れて「はてなダイアリー市民」になりました。

三日坊主の大王としてこれは稀有なことであります。

これもひとえに読者のみなさまの

あたたかいお力添えによるものでございます。

この場を借りて改めてあつく御礼申し上げます。

え?しおらしくて、らしくない?

いやいや、ごくごくまれに、たま〜にマジメなんですよ(キリッ

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5つ星のうち 5.0 すごい。, 2004/3/4

人魚の歌声を聞いた者は、惑わされ、死へと至る。
この物語に登場する人魚は、リトル・マーメイドのようなかわいらしい人魚ではなく、人間の理解を超えた生き物。

岩井俊二ってすごい、と改めて感じさせられる一冊です。
原稿用紙1000枚というだけあって厚い本ですが、
特に最後の方はどんどん読み進められます。

最近、仲良しのKO-TARO

 

そんな海賊王KO-TARO、突然、とある事を言い出した。

 

海賊王「俺、太郎君の本当の名前、知ってるよ」……

 

ん?と思う……

 

避難所で、ヨタノリ君は残念太郎と名乗っている為、子供達は私を太郎君と呼ぶ………

 

それに付随して、ほぼ絡みの無い父兄の方々は、きっと私を太郎と言う名前の人だと思っているだろう(笑)

 

2012年3月7日水曜日

マイク・タイソン - Wikipedia

早口言葉は知っていますか? | Lang-8

こんばんは!

日本語の勉強をしなければなりませんが、今日は勉強をするため強さを見つけられません!(笑)

最近は、言語の全てにも興味が出てきました。どんな言語でも、母語話者にも難しい音があります。
イタリアの子供は、「TR]や「SS]や「RP]難しいです。

たとえば、母は言ったとおり、子供の私は「Scarpe」(靴)という言葉の発音できなくて、「Cappe」といってしまいました。英語の言葉を使って、この「子供の発音」は、「Babytalk」といわれています。日本語は「Babytalk」のような言葉を見つけられなくても、、「子供っぽい言葉」は正しそうです。

2012年3月6日火曜日

イソップ通信 - Yahoo!ブログ

 

2日前になりますが、写真の通り、
みんなで考える協働のまちづくり条例市民会議と
南砺市協働のまちづくり条例策定会のメンバーが集められ、
「南砺市協働のまちづくり基本条例」市当局案説明会がありました。
これは僕ら市民会議が作成した条例案の素案を、
市の有力者で作る策定委員会がまとめあげて、
さらに南砺市職員が、細かい修正をして市当局案としたものです。

チェ 28歳の革命 特集: チェ・ゲバラ、終わらない旅 - 映画.com

2009年1月5日更新

フィデル・カストロとともにキューバ革命を成功に導いた、20世紀最大のカリスマ、エルネスト・"チェ"・ゲバラの生涯をスティーブン・ソダーバーグ監督&ベニチオ・デル・トロ主演で映画化した2部作「チェ/28歳の革命」「チェ/39歳 別れの手紙」。eiga.comでは、来年1月の日本公開を前に、ゲバラの生涯を綴ったノンフィクション・ノベル「チェ・ゲバラの遥かな旅」、バイクで南米大陸30000キロを駆け抜けた旅行記「遙かなるゲバラの大地」といった著作で知られる作家・戸井十月氏に、<永遠の旅人>チェ・ゲバラについてのエッセイを寄稿してもらった。(文・写真:戸井十月)

2012年3月5日月曜日

バブルはなぜ生まれるのか

バブルは、しばしば、人間の強欲やギャンブル熱で説明される。だが、バブルは、そうした個人心理で説明することはできない。なぜなら、それは、金融政策の失敗から生まれる経済現象であり、個人心理はたんなる結果に過ぎないからだ。

1. バブルとは何か

まずは、通常のバブルの定義から見ていこう。

バブルとは、一般に、現実の資産価格のうちファンダメンタルズでは説明できない部分、あるいは資産価格がファンダメンタルズから乖離する状況を指す。

これは、バブルという現象の表面的記述である。しかし、バブルの本質に迫るには、バブルの原因にまで言及しなければならない。

バブルは、景気回復局面における金融緩和によって惹き起こされる。低金利でマネーサプライが増大すると、人々は有り余るマネーを資産購入に使用するようになる。すると資産価格(株・不動産など)が上昇するので、投機家はそれを見越して、高騰しそうな資産の買い占めに走る。資産高騰がさらなる資産高騰を招くというポジティブ・フィードバックにより、資産購入熱は熱狂的な水準にまで達する。その際、実体のない泡沫企業、つまりバブル企業が、泡あぶくのごとく出現するので、この過剰投機はバブルと呼ばれている。

もちろん、不況期での金融緩和は必要なのであるが、景気の現状把握、政策変更の決定と実行、効果の発現に時間がかかるので、適切な時期に金融政策を行うことは難しい。政治的圧力もあって、中央銀行は、往々にして、景気回復局面で金融緩和を行って、バブルを発生させ、景気後退局面で引き締めて、不況を深刻にするというようなちぐはぐな対応をすることがあり、経済を安定させるどころか不安定にすることさえある。