第5章
第5章 戦略本質主義の陥穽と戦略/戦術
1.「伝統の発明」から「文化の客体化」へ
すでに触れたように、「伝統の発明」という言いかたは、1983年に刊行されたエリック・ホブズボウムとテレンス・レンジャーが編集した、イギリスの歴史家たちによる論集の題名『伝統の発明 The Invention of Tradition』(日本語訳の題名は『創られた伝統』)に由来している。ホブズボウムらは、19世紀以降(つまりナショナリズムの成立以降)に、儀礼や文化などの伝統が発明されるという現象が爆発的に起きていることに注目した。そして、その論集のなかのトレヴァー=ローパーの論文のように、スコットランドの伝統文化の象徴となっているタータン・チェックのキルト(スカート状の民族衣装)やバグパイプは、近代になってイングランドとの伝統の違いを強調するスコットランド・ナショナリズムによって捏造された伝統であるといった事実を暴き出したのである。
ホブズボウムは、『伝統の発明』の序論において、近代のナショナリズムと結びついた「発明された伝統」と、いわゆる「伝統」社会における慣習(custom)とを区別し、慣習を「本物の伝統 genuine tradition」あるいは「生きた伝統」と呼びながら、「伝統の発明」と慣習のもつ強靭さや融通性とを混同してはならないと述べている。慣習は先例と調和していることを要求されるために実質的な限界が課せられてはいるが、革新や変化を許容するのであり、慣習の役割は、望まれる変化や逆に望まない革新に対する抵抗に対し、先例との連続性という表現を与える表明を与えることにある。ホブズボウムは、そのような例として、農民たちが「慣習」によってある共有地が村のものだと主張する場合、その多くは歴史的事実というより、王侯貴族や他の村に対する絶え間ない闘争におけるバランスとして表明されているという事例や、英国の労働者が労働運動において昔からの「商慣習」であるとして労働者の権利を守ろうとする場合、そ� ��は実際には昔からの伝統ではなく、最近になって労働者が実践のなかで定着させ、拡張したものであるという事例を挙げている。これらは、「伝統の発明」ではなく、融通性のある「慣習」、「本物の伝統」の例として挙げられているのである。
ホブズボウムらの「伝統の発明」論に対して、ニコラス・トーマスやマーガレット・ジョリー、ジョスリン・リネキンといったポストモダニズム的な構築主義にたつ人類学者たちは、ホブズボウムによる「発明された伝統」と「生きた本物の伝統」との区別を本質主義的なものだと批判している。たとえば、トーマスとジョリーはつぎのようにいっている。「ホブズボウムが行なっているように、無意識の文化的継承としての慣習を、現在のなかで意識的に過去を布告することとしての伝統から区別することができるのだろうか。ホブズボウムの見解においては、一方に、『未開の部族』や農村といった、慣習が優越している自然共同体があり、他方、民族や国家のような人為的な共同体のために伝統が意識的に創造さ� ��るということになる」[Jolly and Thomas 1992: 241]。また、太田好信氏も、おなじように、「ホブズボウム(……)は、『創りだされた伝統』と『旧来の伝統』を区別していることからも、前者には『真正さ』は欠けていると考えている。けれども、ここでは、彼の立場とは異なり、いかなる文化(ホブズボウムのいう『伝統』)も意識的な語りという客体化の過程をへて初めて他者にたいして可視的になるという認識から、ホブズボウムの主張する区別をここでは設けない」[太田 1998:254注(9)]と述べている。
しかし、これらの批判は、ホブズボウムによる「発明された伝統」と「生きた伝統」の区別に当てはまらない。そもそも「本物の伝統」としての慣習は、「差異の連続体」ないし「差異の連鎖」として存在するものとされている。農民たちがある共有地を慣習に照らして村のものだと主張するとき、それは歴史的事実というよりも王侯貴族や他の村にたいする主張として提示されたものだとされていたように、ホブズボウムのいう「生きた伝統」あるいは「本物の伝統」は、他の地域や集団とのさまざまな交渉や相互関係によって変化する融通性のあるものとされているからである。それは、反本質主義者が本質主義として批判する文化のとらえかたとしているような、固定化された「不変の本質」とはずいぶん異な� ��ている。それは、ホブズボウムが近代の英国における労働運動の事例を例として挙げているように、「慣習が優越している自然共同体」において継承されたものでもないし、王侯貴族や他の村といった他者にたいする語りのなかではじめて可視化されるように、まったく客体化の過程をへていない実体としてとらえられているわけでもない。「客体化」という用語をつかうならば、ホブズボウムによる「真正さ」の区別は、客体化のモードのちがいなのである。
ホブズボウムの区別は、境界のあいまいな「差異の連続体」としてある「慣習」と、境界を固定されてその内部を同質化し、外部とはその違いを重複や曖昧さを排除して明確にすることによって「発明された伝統」とのあいだの区別であり、ギアーツによるネイションと原初的紐帯との区別に重なるものと言えるだろう。さらに、ホブズボウムが、生きた伝統と呼ぶ「慣習」の例として、農民たちの王侯貴族に対する闘争や、英国の労働者による労働運動を挙げていることからもわかるように、「発明された伝統」と「慣習」との区別は、エリート文化と民衆文化の区別とほとんど一致している。ただし、このエリート文化と民衆文化の区別は実体として区別されるわけではない。後で述べるように、それは「やりかた� ��の違いとして区別されるということである。ポストモダン人類学は、それらの区別をまとめて本質主義的だと批判しているわけだが、そのような区別、たとえば伝統の発明と慣習の融通性との区別を、真偽の区別としてのみとらえて退けてしまったとき、人類学は人類学にとって重要な区別を放棄したのだということが、本書で明らかにしたいことの一つであった。
ところで、発明された伝統というものがどういうものであるかを理解するには、現在ではよく使われるこの「伝統の発明」という表現が矛盾した言い方であることに注意することが重要である。この用語を使っている研究者たちもあまり意識していないようだが、この語法はレトリックでいう矛盾語法である。「伝統」といえば、昔からのやりかたを受け継ぐことである。それに対して、「発明」とは、今までなかった新しいものを創りだすことを意味する。とすれば、後になってから伝統になることはあっても、あるものごとをいきなり「伝統」として発明することなどありえないはずである。「伝統の発明」がこの矛盾をどのようにごまかしてそのような不可能なことを実現させているのか、これが「伝統の発明」� ��いうことを理解する鍵となる。
では、捏造された伝統が人びとに自分たちの「伝統」として受けいれられるということが、どうして起こるのだろうか。それが可能となるには、人びとが上の世代から継承しているはずの伝統を知らないということが前提となるはずだが、そんなことがどうして起こりうるのだろうか。そして、なぜ近代になって、このような奇妙なことが可能となったのだろうか。
ホブズボウムは慣習(カスタム)を「本物の伝統」としていたが、昔からやっているという理由で続けられると同時に、生活の便宜のためには変更されてしまうという融通性のある慣習は、たいてい守るべき「伝統」などとは意識されずに継承されたり変更されたりするものだろう。それが自分たちの「伝統」として意識されるには、他者との違いを自覚したうえで、その違いを徴づけるものとして、あるものごとを認識するという状況が必要となる。つまり、特定のものごとを自分たちの「伝統」と認識するということは、すでに他者との違いを自覚した意識的な行為であり、それを意識させる状況が近代になって生まれたのだということがいえるだろう。
しかし、それだけでは、新しく創りだされたものを自分たちの伝統として受けいれるということが起こる条件にはならない。自分たちの伝統というときの「自分たち」という共同体が、顔を合わせたり聞き及んだりする可能性のある範囲内のものであれば、だれかが新しい儀礼のやりかたやものごとを創りだして、それを「われわれの伝統だ」と主張しても、人びとにとってそれはいままで見たことも聞いたこともない「新しいもの」でしかなく、昔から続いている「伝統」として受けいれることはないだろう。いままで見たことも聞いたこともないものが、「自分たち」の伝統として受けいれられるには、その「自分たち」という共同体が、目で見たり耳で聞いたりする可能性の範囲を越えていること、いいかえれば� ��接的な関係の連鎖で作られる差異の連続体を超えていること、にもかかわらず、その具体的な関係性を超えた、その抽象的な空間が「自分たちの共同体」として明確に境界づけられていることが条件となる。そのような「想像の共同体」こそ、近代に創りだされたネイションだった。
いいかえれば、〈顔〉のみえる関係性の連鎖のなかで見聞きする直接的な経験の範囲を越えた「自分たちの共同体」が「ネイション」として創られ、しかもそれが個別的で直接的な関係を媒介とせず、いきなり全体として現われる共同体になったとき、はじめて「伝統の発明」ということが可能となるのである。そのような「想像の共同体」がいったん成立すれば、自分たちの村や隣村、あるいは結婚などで移住してきた人たちが実際に行ったり見聞きしたりしていた慣習とは異なるやりかたが「日本」の正しい伝統だと教育やマスメディアによって教えられることで、自分たちが行ない見聞きしてきた慣習もそれとは少し違っている隣村の慣習も、実はネイションとしての「日本の伝統」とは違ったものだった――� ��まり、俺たちのやっていたことがおかしかったのだ――という認識が生まれてこよう。実際に慣習を正しい日本の伝統に直すということは、明治以降、日本各地の地域社会でなされたことだった。ようするに、ローカルな生活世界の「生きた伝統」(慣習)を発明することは不可能であるが(発明することが不可能な伝統をホブズボウムは「本物の伝統」と呼んだのであって、固定された不変のものをそう呼んだのではなかった)、ネイションという「想像の共同体」の伝統であれば、それまでだれも見たことも聞いたことがないものであっても、いきなり「伝統」として創りだすことができるし、それが「伝統」として通用しうるというわけである。ローカルな共同体で「発明された伝統」が受けいれられていく条件とは、そのローカ� �な共同体がすでに近代のネイションとその装置(地方の政府機関や学校やマスメディア)に包摂されているということなのである。
こうして、「伝統の発明」などという、矛盾した不可思議なことがなぜ起こりうるのかという謎に答えをだすことができた。そして、それは、ネイションという想像の共同体における想像のスタイルと、それ以前の想像の共同体における想像のスタイルとの違いによって可能となるものであった。この想像のスタイルの違いは、ホブズボウムの「本物の伝統」としての慣習と「発明された伝統」の区別だけではなく、ギアーツのいう「原初的紐帯」とその受け皿にはなりえない「ネイション」との区別にもそのまま重なるものである。本書では、その違いを提喩的想像と換喩/隠喩的想像との違いといいかえ、提喩的な想像のスタイルによって生み出される民族や文化がツリー状構造をしているものととらえられてい� ��こと、そして換喩/隠喩的な想像で生み出されるまとまりがセミ・ラティス構造をしていることを指摘した。ポストモダン人類学における反本質主義は、それらの区別を無視するか、あるいはアンダーソンが「共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」と述べていたにもかかわらず、それを真偽の区別と解釈して、本質主義的な認識と一様に退けて、その重要性に気づかないでいたというわけである。
K-1です
伝統が発明されうるという謎は解けたが、近代において創出=捏造された伝統がそれまでの慣習に替わって受けいれられていくには、別の条件もあった。すなわち、ホブズボウムが指摘しているように、近代において、それまでの慣習や古いやりかたがいったん破壊されたり放棄されたりしたという断絶があったという条件である。ホブズボウムは、そのことを、「19世紀の社会変化についての自由主義的観念は、伝統に意識的に反対し、急進的改革に与することによって、以前の社会では当然とされた社会的絆や権威の絆を体系的に禁じてきた」[ホブズボウム/レンジャー 1992:18]と述べている。その結果、否定された社会的絆の空白を埋めるために、新たに伝統が発明されたというわけだが、そのとき、その新たな「伝統」は、過去の記録や残された断片を全体化することによって創りだされた。その断片の組み立てかたは、破壊された慣習や社会的絆をもう一度生活の場でつなぎ合わせるというやりかたではなく、提喩的な想像による「空虚で均質な全体」としてのネイションのなかに統合していくというやりかただった(その違いについては、次章で取り上げる)。そして、ネイショ ンの伝統が抵抗なしに受けいれられていく条件は、社会的な絆がすでに分断されてしまっているということにあったのである。
ところで、ナショナリズムによる「伝統の発明」という見方は、文化人類学でも同時期になされていた。それは、人類学が研究の対象にしてきた旧植民地諸社会において、ナショナリズム(ネイション形成)と結びついた伝統や土着文化の復興という形の「伝統の発明」が顕著になっていたことと無関係ではなかった。たとえば、1982年にロジャー・キージングとR・トンキンソンが編集した『マンカインド』誌の特集号「伝統文化の再創出」では、政治指導者たちが国民国家の統合のために「発明した伝統」が、ローカルな社会で「生きられた実践」と対比され、発明された伝統の非真正性が指摘されていた。キージングは、その後も「過去を創造する」という論文[Keesing 1989]で、太平洋島嶼諸国民国家での分離主義的なナショナリズムや国民国家内のマイノリティの闘争のレトリックにおいて、政治的象徴として過去を創造するといった「伝統の発明」が盛んにみられることを指摘している。
けれども、すでに触れたように、1990年代になると、キージングとおなじ太平洋島嶼諸社会の研究者であるトーマスやジョリー、リネキンといった人類学者たちは、ホブズボウムやキージングらの「伝統の発明」という見方が本質主義の残滓をひきずっているとし、そこにみられる伝統と近代の区別、発明された伝統とローカルな社会の本物の伝統との区別を批判し、「伝統の発明」という用語に代わって「文化の客体化(objectification)」あるいは「文化の構築」という用語を使いはじめた[Jolly and Thomas 1992;Linnekin 1992;Thomas 1992、1993;太田好信 1998]。この「文化の客体化」という用語は、発明された伝統の虚構性の指摘から、文化の創出における意識的・操作的な主体性や創造性の強調へと重点がシフトされたことを示している。「文化の客体化」について、太田好信氏は、つぎのようにまとめている。
簡潔に表現すれば、文化の客体化とは、文化を操作できる対象として新たにつくりあげることである。そのような客体化の過程には当然、選択性が働く。すなわち、民族の文化として他者に提示できる要素を選びだす必要が発生する。そして、その結果選びとられた文化は、たとえ過去から継続して存在してきた要素であっても、それが客体化のために選択されたという事実から、もとの文脈とおなじ意味をもちえない。……こう考えると伝統的な文化要素という実体は存在しないことになる。文化の客体化によってつくりだされた「文化」は、選択的、かつ解釈された存在なのである。[太田 1998:72]
「発明された伝統」と「生きた伝統」としての慣習との区別をトーマスらが否定したのは、「伝統の発明論」が伝統と近代という対立を実体的にとらえて明確に分かれているものとしたことへの批判だった。たとえば、キージングらは80年代の「伝統文化の再創出」のなかで、首都に住むエリートの政治的指導者のナショナリズムが発明する伝統を近代に属する非真正なものとするのに対して、ローカルな社会で「生きられている慣習」は、そのような近代とは無縁であるがゆえに真正な伝統であるとしていた。つまり、近代と伝統とを排他的な二分法によって実体的にとらえていたわけである。それに対して、トーマスは、キージングらが「真正な伝統」と呼んだものも、植民地的状況の下で、西洋とオセアニア、伝統と近代との「歴史的もつれあいhistorical entanglement」というひとつのプロセスのなかで(同時間的に)創造されたものだと述べて、固定された伝統と近代の二分法を否定したのである。そして、その否定は、「文化の客体化」論の大きな意義だといえよう。
ただし、トーマスは、「歴史的もつれあい」におけるツリー構造とセミ・ラティス構造とのあいだの(力関係の不均衡をともなった)せめぎあいには無関心だった。「歴史的もつれあい」が、力関係に圧倒的な格差があるところで現われていること、そして、強制されるツリー構造と、それを受けいれているようにみえながら密かにそれをセミ・ラティス構造に変容させていく日常的実践というせめぎあいにおいて、「ツリー構造の再生産」と「セミ・ラティス構造への変容」という二つの方向性が一つのプロセスのなかで絡みあいながら生じていることに気づこうとはしない。その方向性の二分法は、近代と伝統との本質主義的な二分法とは異なるものだが、トーマスをはじめとする「文化の客体化」論者たちは、「� ��体化」における主体性や目的論的な意図を重視するために、そのようなもつれあいから生じる区別の重要性に気づかず、結局、生活の場において人びとが〈いま-ここ〉の生活と自己を肯定するために実際に行なっている、ツリー構造をセミ・ラティス構造へと変容させていくラディカルな実践を見落としてしまっている。
トーマスにとって、「発明された伝統」と「生きた伝統」との区別の放棄は、文化の客体化が植民地化の過程以前にも見られる根本的で普遍的なものだという認識とも結びついていた。トーマスは「伝統の倒置Inversion of Tradition」[Thomas 1992]という論文のなかで、太平洋の諸社会における文化の客体化が植民地化以前にもあったとし、その例として、首長間の交換関係など多くの交流があり、文化的に類似したフィジーとトンガとサモアという三つの島のあいだで、たとえばある神話でフィジーの女の入れ墨がトンガの男の入れ墨の逆転として語られるように、「フィジーのやりかた」が「サモアのやりかた」や「トンガのやりかた」の対照物のように意識され、そういった逆転した慣習がエスニック文化の違いの象徴として「客体化」されていたと述べている[Thomas 1992:216-217]。
そこで挙げられていた神話がどのようなものかというと、フィジーは女に入れ墨をするのにトンガはなぜ男に入れ墨をするのかを語るフィジーの神話で、フィジーで入れ墨を教わってトンガに最初に入れ墨をもたらしたトンガ人が、「女に入れ墨を、しかし男はしない」と繰り返し歌いながら戻る途中で、切り株にひどく躓き、そのために歌を忘れて残りの道中は「男に入れ墨を、しかし女はしない」と歌いながら帰ったので、入れ墨の慣習がトンガとフィジーとでは逆転しているのだと語るものである[Thomas 1992: 217]。つまり、そこでは、フィジーの慣習がトンガの慣習の対照物として意識され、エスニックな文化の違いを表すものとして操作されていたというわけである。
けれども、トーマスは、「客体化および文化を対置させることは、植民地主義とはまったく無関係に行なわれていたが、植民地時代およびポスト植民地時代を通じて発展した客体化と文化的対置は質的に変わり、まったく異なった差異化の闘争の場に入っていった」[Thomas 1992:218]とも述べて、植民地的接触以前の「サモアのやりかた」や「フィジーのやりかた」や「トンガのやりかた」の客体化のありかたと、植民地的接触以後の客体化のありかたが質的に違っていることを示唆してもいる。しかし、どう質的に違うのかについては、「ポリネシアあるいはメラネシアの近隣の島どうしのあいだの差異よりも、島とヨーロッパとのあいだの差異のほうがはるかに露骨であり、したがって、ひとつのまとまりとしての土着の生活様式についてのより複合的で全体化された認識をもたらしたこともあって、植民地的遭遇は植民地以前に比べてより重大な結果をまねいた」[Thomas 1992:218]と述べているだけであった。
しかし、植民地的接触以後の客体化が「全体化」されているという質的な違いの理由を、島とヨーロッパとのあいだの差異が島と島のあいだの差異よりもはるかに大きいことに求めるのは、それらの文化間の差異を実体化しているという点で、トーマス自身の議論に反しているだろう。それに、近代に特有の、複合的で全体化された文化的対置としての客体化は、歴史家のミュシャンブレット[1992]などが明らかにしているように、西洋と植民地化された非西洋との「接触領域」だけにみられるのではなく、近代の西洋内部の民衆文化と支配文化との「接触領域」にもみられた。したがって、その質的変化を、西洋と非西洋のあいだにある文化の差異の大きさの違いに帰することはできないだろう。
フィジーの人びとが「フィジーのやりかた」を「トンガのやりかた」とか「サモアのやりかた」との差異や倒置において把握していたというようなことは、たしかに植民地的接触以前ないし国民国家以前でもどこにでも見られる。しかし、その「フィジーのやりかた」というまとまりは、あるときにはトンガのやりかたと重なり、あるときにはサモアのやりかたと重なりながら、そういった差異の連続体のなかで、むしろそれらとの交通やつながりのなかで非一貫性や雑種性をもつまとまりとして語られている。それは、「差異の連続体」のなかで無限定につながっていく連鎖のなかの差異であり、固定化され全体化された境界をもたないものだろう。この神話に見られるような二項対立の変換は、レヴィ=ストロー� ��が神話研究で、神話における二項対立の逆転としての変換として明らかにしていたように、換喩と隠喩との置換による変換であって、それは換喩/隠喩的なまとまりのなかに位置づけられるものである。そして、そこで把握された「われわれフィジーのやりかた」という自己/他者の区分は、あくまでもその場そのときの関係性から切り離されておらず、首尾一貫したアイデンティティとして全体化されてはいなかったのである。けれども、植民地的接触以降の「客体化」ではそれは全体化されている。つまり、トーマスは、「全体化」されることによる構造的な違いの決定的な重要性に気づいていないのである。
「伝統の倒置」という論文で、トーマスが中心的に扱っている事例は、今日フィジーの代表的な伝統として語られ、フィジー人のアイデンティティとなっている「ケレケレ」という親族間の贈与慣行であった。トーマスによれば、ケレケレは植民地化以前にはさまざまな交換の諸慣行のひとつであり、それほど目立つものではなかった。しかし、近代化を推し進めようとする植民地統治者によって、親族間の物乞いとか企業家精神の育成を妨げる非合理的な浪費とされたケレケレは、植民地期に、フィジーの人々によって、ヨーロッパの個人主義的で資本主義的な文化とは対照的な、フィジーの共同体主義的で互酬的な伝統文化を象徴するものとして客体化されたというのである。つまり、ここでの客体化は、他者に� ��って与えられた自分たちの文化の諸表象から、自分たちの文化を西洋と対立するものとして提示できる要素を選び出し、それを、「西洋近代=資本主義的・個人主義的(利己的)/自分たちフィジーの伝統=共同体主義的・相互扶助的(利他的)」という二元論的対立によって、フィジーの伝統の全体を表すものとして「全体化」するという操作のことである。
トーマスが挙げている「ケレケレ」という伝統の「客体化」には、菜食主義をヒンドゥーの伝統として全体化し、支配者であるイギリス人を「牛喰い人種」として自分たちの道徳的優位を表そうとしたヒンドゥー・ナショナリズムと同様の、力関係に格差のある西洋との上下関係の象徴的逆転もみられる。トーマスは、このような二元論的対立による全体化された客体化を「対抗的客体化」と呼んでいる。対抗的客体化とは、オリエンタリズムの二元論的対立とおなじツリー構造をもち、それをそのままの構造で逆転させたものといえるだろう。
フィリス·ウィートリーは、どのように多くの子供を持つとした
ところで、第2章で、ヴァヌアツにおける「スクールの世界」と「カストムの世界」についての吉岡政徳氏の説明を紹介したが、この二つの世界の区分は、トーマス流の文化の客体化論からすれば、ヴァヌアツの人びとが、キリスト教や政府、学校などの西洋文化の価値を逆転させる形で、自分たちの文化の要素を抽出し純化して、カストムの世界を創出することによって、自己と他者の新たな差異化を行なった結果ということになるだろう。人びとは、そのように伝統を客体化することによって、西洋文化の模倣による近代化のなかで、自らのアイデンティティを対抗的に再構築したというわけである。けれども、人びとは、スクールの世界を自らの生活世界の一部として受けいれながら、二つの世界を同時に生活の� ��としているようにみえる。そこでは、人びとは、「マン・プレス」――吉岡氏のいう〈場の論理〉、本書のことばでは隣接性のみによる関係性――によって、二つの世界を「チェーンの輪をつなげるように結び付け」ている。トーマスが「対抗的客体化」というときに見落としているのは、このような〈場の論理〉、隣接性による換喩的つながりによって、ツリー構造をセミ・ラティス構造へと変容させていく日常的実践なのである。
ケレケレの例に見られるように、トーマスらがオセアニアの各地で報告している「対抗的客体化」の事例の多くは、オリエンタリズムにおける二元論的対立をそのまま道徳的に逆転することによって、植民地主義に対抗する民族的アイデンティティ(種的同一性)を確保するというものだった。いいかえれば、文化の客体化論は、植民地において「伝統」の全体的な(すなわち本質主義的な)表象を用いて脱植民地化を図る現地の「アイデンティティの政治」を新しい文化創造として肯定的に評価するものであり、文化人類学において登場した「戦略的本質主義」であったといえるだろう。ただし、そのことはトーマスにもトーマスの批判者にも自覚されてはいなかった。
2.戦略的本質主義とサバルタンの戦術
ニコラス・トーマスらの「文化の客体化」論は、「伝統の発明」論についてそれがまだ本質主義のしっぽをひきずっていると批判していたように、理論的には構築主義を徹底した立場をとりながら、政治的には、植民地化された社会の人びとによる文化の客体化を通した意識的なアイデンティティの操作を、人々の文化創造の主体性を示すものと肯定的に評価するという立場をとっていた。つまり、この立場は、理論的には反本質主義を採りながら、政治的には反本質主義に反対する戦略的本質主義という特徴をもつといえるが、それが自覚されたものでなかったことは、構築主義を徹底することで旧植民地の人びとをエンパワーメントできると考えていることにも表われている。そして、文化の客体化論における理論� ��政治のあいだの齟齬は、ネイティヴのナショナリストが本質主義的な言説を用いて、人類学者の構築主義(反本質主義)を批判するときに顕在化した。その典型的な例が、マオリの伝承を「伝統の発明」としてとらえたアラン・ハンソンの論文[Hanson 1989]に対するマオリの学者の非難であり[Linnekin 1990]、そしてまた、先に簡単に紹介したキージングの「過去を創造する」という論文[Keesing 1989]に対するハヌアニ=カイ・トラスクの批判に始まる論争[Keesing 1989、1991、Trask 1991、Linnekin 1991]であった。
ここでは、よく引かれるキージングとトラスクの論争を取り上げてみよう。トラスクは、ハワイ先住民運動の指導者の一人であり、ハワイ大学のハワイ研究所の所長であるが、キージングの論文を「学問的な植民地主義」[Trask 1991:159]や「人種主義」の現われと批判している。つまり、白人の学者の研究しか参照しないキージングは、現地人は自分たち自身の生活様式すらよく知らないから彼らの書いたものは読む必要がないという想定を他の多くの西洋の学者と共有しており、またキージングは、ハワイ先住民運動のなかでよく言われる「母なる大地」という観念は創られた伝統だというリネキンの主張そのまま受けいれているが、それは白人との接触以前からわれわれハワイ人が土地を母と見なしていたという確固たる証拠を無視していると、トラスクはいう。そして、キージングは、ハワイの民族主義者の抵抗や観光産業に対する批判を無視し、ハッピーなハワイの現地人が自分たちの「文化」を観光客に分け与えようと待っているという神話を信じている� �めに、ハワイのネイティヴのナショナリストが自分たちの生活様式について言っていることと巨大な観光産業が「ハワイの文化」として広告していること(フラ・ダンスやウクレレやパイナップルなど)とを混同していると批判したのである[Trask 1991: 160-1]。
トラスクの批判は、ネイティヴは自分たちの文化を理解することができないというオリエンタリズムを転倒させ、ハワイ先住民の文化は先住民にしか理解できず、それを語る権利も先住民にしかないというもので、「民族絶対主義」であるといえよう。そして、その政治的批判を別にすれば、トラスクは、キージングとおなじく、客観的真実というものがあり、それを認識できるのだという客観主義の立場にたっている。対立しているのは、キージングが「過去の捏造」としていることを歴史的事実だとしている点であった。
したがって、トラスクの議論を、オリエンタリズムや植民地主義にみられるアイデンティティ・ポリティックスをそのまま写し取った本質主義だと批判するのは比較的簡単だろう。しかし、本質主義と戦略的本質主義の区別はそれほど簡単でない。ネイティヴの本質主義的言説が本質主義なのか、あるいは本質主義の戦略的利用なのかを判定をすることは困難であるだけでなく、それを判定するのがだれなのかという問題もそこにはある。
一方、キージングの論文は、客観主義に立って現地のナショナリストによる「伝統の発明」を歴史的事実に反するものだと指摘するものであり、『伝統の発明』のなかで、トレヴァー=ローパーが、スコットランドの伝統文化と謳われているタータン・チェックのキルトやバグパイプは、近代になってイングランドとの伝統の違いを強調するスコットランド・ナショナリズムによって捏造されたものであるといった指摘と変わるものではなかった。それは、文化の客体化論が立つ徹底した構築主義とは異なり、歴史的事実は客観的に把握できるという立場にたっている。したがって、キージングにとって、白人の研究者のものしか参照していないというトラスクの政治的批判に対して、白人だろうとネイティヴだろう� ��だれが述べようと、歴史的な真実は真実だと答えることができる(あるいはそう答えるしかないだろう)。
しかし、ポストコロニアル理論と同様に、理論的にはポストモダニズム的な構築主義に立ち、政治的には抑圧され差別されてきた先住民たちのサポートをするという立場にたつ「文化の客体化」論者たちにとって、トラスクの「だれがハワイ先住民文化について語る権利をもつのか」という問いは、無視できないものである。たとえ、トラスク自身は客観主義にたっていても、その批判は、白人が語るのかネイティヴが語るのか、男性が語るのか女性が語るのかという「発話のポジション」の違いが政治的には大きな意味を持つということを含んでいるからである。たとえば、「ニグロ=黒人」という人種的アイデンティティを押しつけられ、日常的にそれを意識させられているアフリカ系アメリカ人が自覚的に「黒� ��」というアイデンティティに基づいて抵抗運動をしているとき、自分たちの人種アイデンティティを意識させられることのない白人が「人種なんてカテゴリーに頼ることは間違っている。黒人ひとりひとりの多様性や可能性を見るべきだ」と発言するのと、差別に苦しむ黒人自身が発言するのとでは、おなじ内容の「発話」にみえても意味が異なり、前者は現にある黒人差別を覆い隠すという政治的意味をもつことになる。そのことは、『オリエンタリズム』のなかで、オリエンタリストたちが客観的な知を語っていると主張する場合、それはオリエント全体を一望できる超越した足場に立っているという主張を含意しているのであり、オリエントを支配するテクノロジーとなっていると述べながら、サイードが知と権力の結びつきを指� �したときに、明らかにしたことでもある(ただし、サイードはトラスクと違い、ネイティヴによる「アイデンティティの政治」もオリエンタリズムと同様の支配のテクノロジーだとして批判している)。
発話のポジションの政治性という視点を受けいれている構築主義者にとっては、トラスクのようなネイティヴという「発話のポジション」からの「政治的に正しくない」という批判は、客観主義にたつキージングに対してよりもむしろ深刻なものとならざるをえないのである。
キージング-トラスク論争など、ネイティヴの学者と白人の学者との論争が提起した問題に真剣に取り組んだのは、アラン・ハンソンの論文(Hanson 1989)へのマオリ人学者の非難のときにはネイティヴであるマオリの側にたってハンソンを批判し、キージング-トラスク論争では、キージングの論文に使われた自分の論文をトラスクに批判されたハワイ研究者のジョスリン・リネキンであった。
リネキンは、自分もその陣営にいたポストモダニストの構築主義に対して、キージングのような客観主義的批判とトラスクのような政治的批判という二つの批判があるとしながら、両方の批判とも欠陥があるという。客観主義的批判とは、構築主義が過度の相対主義に陥っているために、民族主義者による伝統の発明に対して批判できなくなっているが、人類学者は「真の過去」のほうを支持すべきだと主張するものであり、政治的批判は、人類学者は土着の言説については脱構築するべきではなく、人類学者の適切な役割は現地人を支持することにあると主張するものである[Linnekin 1992:257]。
リネキンは、その二つの批判の欠陥をつぎのように述べる。まず、客観主義者の批判については、「本物」の伝統や文化を定める上での自分たちの民族誌的権威を守ろうとするものであり、土着の文化を表象するという仕事を外国の学者たちが独占することはもはや不可能だとリネキンはいう。他方、政治的批判による「現地人への支持」という要求は、現地人の見方や声を単一であり一枚岩であるかのように仮定しており、植民地的カテゴリーを複製しただけのオリエンタリズムに陥るという点で、問題を残す戦略になっていると述べる[Linnekin 1992:258]。
このように、リネキンは、キージングとトラスクに代表されるような両方の批判とも退けている。けれども、リネキンは、それによってポストモダニズム的な構築主義を擁護するだけにとどまることはできなかった。キージング-トラスク論争が提起した「発話のポジション」の問題ゆえに、脱構築の徹底化を素朴に進めるだけのポストモダニスト的な(脱)構築主義を支持しつづけることはもはやできず、ポストモダニストの構築主義が「『反規律的(countercanonical)』批判や『サバルタン(従属階層)』からの批判には弱い」[Linnekin 1992:257]ことを認めざるをえなかったからである。
もっとも、リネキンは、ナショナリストたちがたとえば「サモア人」という自明なものとしているカテゴリーを脱構築するとき、文化的統合を安定させようとする現地の人々(エリートたち)からは非難されるだろうが、権力やエリートの言説から除外されている「サバルタンたち」(従属的な位置に追いやられている人びと)からは称賛されるだろうと述べて、現地のエリートの声だけが現地人の立場を代表=表象しているのではなく、現地の声は多様であると指摘して、トラスクのようなネイティヴのナショナリストからの政治的批判をかわしている。しかし、この「サバルタンの立場にたつ」ことによって、伝統の発明論ないし文化の構築論に対する「政治的に正しくない」という批判が現地エリートの立場か� ��のものであって、それは現地人エリートが現地の声を独占的に表象するという権威を守るものだとすることでその批判をかわそうという戦略は、もともとキージングが採用していたものだった。そうするとき、キージングは、サバルタンを独自の固有性をもつ階級として扱い、それが都市にすむ政治的指導者や学者などのエリートたちとは実体的に区別されるものだという立場を採っていた。けれども、研究者のこのような戦略は、エリートよりも下層の人びと(サバルタン)のほうが「政治的に正しい」ということに依拠して、自分が同一化する被抑圧者ないし弱者を探すという、研究者のあいだでのゲームでしかない。
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こうして、リネキンは、発明された文化や伝統の脱構築が「政治的正しさ」を保持できない場合があることを認めながら、ネイティヴのエリートたちの「伝統の発明」に対しては、むしろサバルタンたちのエンパワーメントのために脱構築することは政治的に正しいが、サバルタンたちによる文化の創造に対しては脱構築を止めるべきだという結論に達している。そして、リネキンは、その論文の結論を、「おそらく、私たちのうちの文化の発明について書いてきた人々は、いまや、『良い人類学』を追求するなかで、脱構築をやめるかどうか――そして、どの地点で脱構築をやめるのがいいのかについての、まったくファッショナブルではない議論を始めるべきなのだろう」[Linnekin 1992: 261]という、脱構築の適用範囲についての問題提起で終えるしかなかったのである。
ようするに、リネキンは、ポストモダニストの構築主義の立場から戦略的本質主義の立場へとシフトしているといえる。ただし、その戦略的本質主義は、植民地的状況にあるネイティヴの言説を肯定して脱構築を止めるという戦略的本質主義ではなく、ネイティヴをエリートとサバルタンとに分けて、サバルタンの言説の脱構築をすべきではないとする戦略的本質主義である。つまり、「ハワイ先住民」や「サモア人」といったカテゴリーは一枚岩のものではなく階級や性差などの分割線によって分かれており、そのカテゴリーを一枚岩のものとするネイティヴのナショナリストたちの本質主義によって抑圧されるサバルタンたちがその内部に存在するといいながら、政治的指導者などネイティヴではあるがエリート� ��ナショナリストによるネイションの本質主義的言説を脱構築することはサバルタンたちのエンパワーメントになるだろうというのである。
リネキンの議論のアポリアは、彼女が、キージングと同様に、サバルタンを固有の場と同一性をもつ存在として扱っていることにある。なるほど、リネキンは、現地人の声も多様であって、現地人というカテゴリーは性差や階級や世代やランクの分割線に沿って歴史化される多元的なものであると述べており、サバルタンの声も多様で多元的なものだといっているようにみえる。しかし、その多様性や多元性は、発話のポジションを考えるときに、民族や人種だけを強調するのではなく、エリートとサバルタンの違いという階級や性差といったもの分割線を付け加えることによる多様性である。それは、同一性(アイデンティティ)をもつ分割線の数を増やしたことによって生じた複数性である限りにおいて、明確に境� ��づけられて固定された種的同一性が複数化されただけとなっている。つまり、たとえひとりひとりの声は違うとまで言っても、そのひとりひとりの声はあくまでも同一性をもつとされているのである。
けれども、インドの歴史家たちによって始められたサバルタン・スタディーズにおける「サバルタン」という視点の到達点は、サバルタンたちが同一性を有する声をもつことがゆるされていないという現実から出発して、その同一性なき声の重要性ないし批判性を積極的に認めようとするものであった。サバルタン・スタディーズ・グループの一人であるディペシュ・チャクラバルティは、サバルタンの特徴をその「断片性」に求めて、国家の申し子(つまりエリート)である自分たち中間層がサバルタンのもとに出かけるのは、「断片的である」ことを学びに行くのだと述べている。チャクラバルティは、その断片性について、「暗黙の全体を想定する断片の数々という意味で断片的ではなく、全体性という観念ば� ��りか、『断片』という観念そのもの(というのは、いかなる全体もないとしたら、断片はいったい何の断片だということになろう?)に挑戦する断片なのである」[チャクラバルティ 1996: 100]と述べ、「根源的に『断片的』で『挿話風』であることを学ぶためにサバルタンのもとに出かけることは、知り、判断し、意志する主体が、何らかの探究に先立って、すべての人にとってよいことをすでに知っているというふりをすることのうちにうごく、モノマニア的な想像から遠ざかることなのである」[チャクラバルティ 1996: 101]と言っている。そう述べるとき、サバルタン性の把握は、政治的正しさという議論の枠組みを乗り越えているように思われる。というのも、サバルタンの声の特徴は、断片的で挿話風であり、けっして固定されず、そのときどきに変容するものとされているからである。リネキンがとらえ損なっているのは、断片的で挿話風である限りにおいて全体性やモノマニア的な想像(それは提喩的想像と重なり合っている)から遠ざかっているサバルタン性であり、「断片的であること」それ自体の批判性、いいかえれば、全体を見渡し把握するような固有の場や首尾一貫性をもたないゆえの批判性なのである。そして、リネキンだけではなく戦略的本質主義が陥っているアポリアは、全体性という観念なしに「断片であること」が可能であり� ��断片的で挿話的であることが社会的絆を分断するのではなく、むしろ具体的な関係性の保持になるのだという視点の欠如に由来しているのではないだろうか。
ホブズボウムやサイードに対してもその本質主義的側面を批判するといった反本質主義の徹底化の一方で、西洋の学者たちが「伝統の発明」論のような脱構築を、世界システムの中で明らかなヘゲモニーをもつ自分たちの文化や伝統にではなく、植民地化された地域における再構築された伝統に対して適用するとき、構築主義に対して、現地の民族主義者たちから新植民地主義であるという批判が寄せられるということを、キージングとトラスクの論争で見てきた。トラスクの批判は、自己肯定的なアイデンティティの確立をめざす土着主義的な民族主義運動を「伝統の発明」と指摘する構築主義の議論は、抑圧されてきたネイティヴ自身によるアイデンティティの確立の基盤を破壊しようとしているという批判であった� ��けれども、その論争で重要なことは、もはやキージングのように、ネイティヴによる「伝統の発明」に対する客観的な批判(いいかえれば、白人の学者だろうと非白人の学者だろうと、どのポジションから発話しても「真実は真実だ」ということを前提としたような批判)が通用しないということだった。
反本質主義(構築主義)の直面した、そのような被抑圧者やマイノリティの用いる本質主義的言説を批判できるのかという政治的ジレンマから、言説をどのような社会的ポジションから発話しているのかという「発話のポジション」を問題にして、抑圧されたマイノリティが「戦略」的に本質主義的言説を用いる場合には、あたかも中立的な立場にたって反本質主義からの批判をすべきではなく、被抑圧者の本質主義的言説を認めるべきだという戦略的本質主義(反・反本質主義)が登場してきた。
しかし、すでに述べたように、戦略的本質主義には、部分的な目的に限定されたものであっても、同一的なカテゴリーの同質化に戻ってしまい、その内部に含まれる異種混淆的なものや境界的なものの抑圧につながってしまうという難点や、西洋による植民地統治への対抗という近代日本の大東亜共栄圏の構想を批判できなくなるなどの問題点があった。ここでは、それらの政治的なアポリアの根底にある、より根本的な問題点に触れたいと思う。
リネキンは、自分を含めた構築主義者の人類学者たちは「いまや、『良い人類学』を追求するなかで、脱構築をやめるかどうか――そして、どの地点で脱構築をやめるのがいいのかについての、まったくファッショナブルではない議論を始めるべきなのだろう」と書いていたが、「どの地点で脱構築をやめるのがいいのか」という議論における分岐点は、ネイティヴの政治的指導者やエリートの本質主義的言説ないしアイデンティティの政治に対しても脱構築をやめるのか、あるいはおなじネイティヴでも、それら支配者層の本質主義的なナショナリズムに抑圧されているサバルタンを支援するためにも、そこまでは脱構築するのがいいのかという点であった。キージングは、明確にサバルタンの立場に同一化し、エ� ��ートの本質主義的言説を利用したアイデンティティの政治を批判しており、リネキンも、個別に判断するということを示唆しながらも、キージングと同様に、ネイティヴのエリートの本質主義的言説を脱構築するという立場を採っていた。しかし、この立場は、サバルタンがエリート・ナショナリストの言説を受容したり模倣したりするだけで、同一化している人びとに裏切られたと感じてしまうことになる。
また、このようなサバルタンの手前で脱構築をやめるという立場に対しては、おなじく「文化の客体化」論にたつ太田好信氏が述べているように、ネイティヴをエリートとサバルタンに分断し、人類学者自身が「物言わぬサバルタン」に同一化することで、「物言う」エリートを排斥して、人類学者が勝手に解釈できる余地を確保しようとするものだという批判が出ている。けれども、「どの地点で脱構築をやめるのがいいのか」という議論や「だれに文化を語る権利があるのか」という、発話のポジションをめぐる対立は、結局、人類学者が「物言わぬネイティヴのサバルタン」に同一化するのか、「物言うネイティヴの有機的知識人」に同一化するのかという、他者への同一化による、研究者自身の「無実の政治学� ��のゲームにおける違いとなっていよう。つまり、そこで賭けられているのは、自分の政治的正しさを確保しようとする研究者自身のアイデンティティでしかない。
これらの立場は、両方ともネイティヴの立場に同一化し、かれらをエンパワーメントしようとする「良心的な」人類学を目指すということからきている。しかし、これらにみられる他者との同一化は、序章で紹介した関根康正氏のように、サバルタンとの〈顔〉のあるつながりのなかでサバルタンを「自分と変わらない不完全な人間として実感する」ことで「絶望的に悲惨なサバルタン」というイメージが瓦解する場――他者と隣接性によってつながる「前景」――に踏みとどまるという姿勢とはまったく異なったものだ。あるいは、前章で紹介したディペシュ・チャクラバルティのように、「根源的に『断片的』で『挿話風』であることを学ぶためにサバルタンのもとに出かける」こととも違っている。「発話のポ� ��ション」をめぐる議論にみられるのは、ネイティヴをエンパワーメントしようという啓蒙主義的主体を確立するあまりに、前景を消去してつくられる「絶望的に悲惨なサバルタン」というイメージに同一化してしまうことなのである。そして、無実の政治学は、近代の支配のテクノロジーとしての種的同一性にもとづくものとなっている。
このように、戦略的本質主義の問題点は、本質主義的な言説の政治的で「戦略」的な利用が近代の支配のテクノロジーとしての種的同一性を強化してしまうことにある。ある鼎談のなかで、冨山一郎氏はそのことをつぎのように指摘している。
……最近乱用されている言葉で「戦略的エッセンシャリズム[戦略的本質主義]」という表現があります。それを使う気持ちもわかるし、たぶんその背景には力関係の問題もあるんでしょうが、概念的にはものすごく問題があると思うんです。戦略性という言葉を彼らに言及することによって、彼らの戦略といったあとで、それを名付けるのは我々、という、つまり彼らの位置を評価し高めながら、でもそれを名付けているのは人類学者という、ねじくれた関係。それはやはり用語の問題としてあると思うんです。戦略的エッセンシャリズムといったとき、そこには手段的なあるいは目的合理的な思考が働いていると思います。文化が発話されていることと、それを目的合理的に置き換えるというところの間には� ��離があって、戦略といった瞬間に戦略的な主体が次に設定される。しかもそれは彼らの戦略だといってしまう。彼らの戦略だから私は支援するとか、そういう話になる前にそこで発話された関係性というものが自分の記述なり文化の記述にどうかかわるのかという問題が先ではないかと思います。[太田/冨山/清水 1998:46-47]
もともと「発話のポジション」という視点は、固定されたアイデンティティという視点にかわるものとして提示されたはずのものだった。それは、固定された主体の位置を問題するのではなく、その発話がなされた関係性において記述の意味や主体の位置がどう交渉され移動していくのかを問題にしていた。つまり、それは、発話による「呼びかけと応答」においてそのつど決められる、変動するポジションを問題にするとき有効になる視点なのであって、個々の「呼びかけと応答」における具体的な〈顔〉のあるつながりとは無関係に決まっているものとしてしまえば、固定されたアイデンティティ(人種や階級や性)とおなじものになってしまう。そして、戦略的本質主義における「発話のポジション」は、抑圧� ��と被抑圧者、あるいはオリエンタリストとネイティヴというように固定されたアイデンティティとおなじものとなっているのである。そこでは、発話のポジションを問う「だれがだれに向かって主張しているのか」とか「文化を語る権利がだれにあるのか」という問いは、あらかじめ答えが決まっている問いとなり、固定された位置=アイデンティティを介した「無実の政治学」や「犠牲の政治学」を主張するだけになる。このようなアポリアは、冨山一郎氏が示唆しているように、戦略的本質主義が「戦略」の主体を自覚した自律的な啓蒙主義的主体としていることに由来するといえるだろう。そして、それはつぎにあげる戦略的本質主義のもうひとつの問題点の背景にもなっている。
戦略的本質主義のもうひとつの問題点とは、それが理論的には構築主義に立っているために、マイノリティによる本質主義的言説の戦略的利用やアイデンティティの政治を肯定する場合でも、それが段階論になってしまうというものである。すなわち、「理論的」には問題があるが、固有の場や首尾一貫したアイデンティティをもたないかぎり抑圧されたままであるから、抑圧的状況を脱するための一段階として被抑圧者の一時的な戦略としては認めるというものとなる。たとえば、そのような段階論を自覚的に唱えている浅田彰氏は(「戦略的本質主義」ということばを使ってはいないが)、自分をアイデンティファイすることすらできない形で抑圧されてきたマイノリティが、ある段階でそのアイデンティティを、� ��りをもって自認し明示することが不可欠だとしながら、つぎのようにいう。
だけど、……それはマジョリティとマイノリティの二項対立を脱構築する上でのひとつの局面にすぎないのではないか。たしかにあらゆる二項対立は権力関係として組織されているわけだから、一度はそれを逆転する局面が不可欠であり、その過程で、マイノリティは、マジョリティから押しつけられたレッテルを逆手に取ってでも、自分を主体化しなきゃいけない場合がある。しかし、その局面だけで終わってしまうと、主体として自己を回復したはずのものが、かつてのマジョリティの主体を縛っていたありとあらゆる条件を、場合によってはそれよりももっと悪い形で背負い込んでしまうことになってしまう。……だから、その次に、あるいはそれと同時に、そういうマジョリティとマイノリティの二項対立� ��支えている土俵自体をずらし、異質な線の束に開いていく局面が必要なんだ、と。……まずもって自分のアイデンティティを自認することで主体化するというのは、必要な局面ではあっても、いわば敵の論理を逆手に取るようなきわどい局面でもあって、それだけで終わってしまうと、そのマイノリティ自体の中にあるさまざまな異質性を抑圧し、マジョリティの主体を縛っていたのとおなじ、あるいはもしかするともっと悪い拘束を自らに引き受けてしまう可能性があるのではないか。[高橋/西谷/浅田/柄谷 1997: 27]
しかし、このような段階論は、被抑圧者とされる人びとが〈いま-ここ〉の生活のなかでなんとかして自己を肯定的にとらえることのできる場を作っているのに、そのような〈いま-ここ〉の生活における日常的な営みを否定してしまうことになるだろう。戦略的本質主義に内在する段階論は、他者の〈いま-ここ〉での実践を、歴史的な時間に位置づけられたある段階における「抵抗の戦略」として解釈するわけだが、それはそのように解釈する者が属している現在という時間を特権化して、他者の〈いま-ここ〉を否定することにほかならない。けれども、〈いま-ここ〉という時間はけっして発展段階というような歴史的時間に位置づけられるものではない。
戦略的本質主義の採っている段階論が他者であるネイティヴの〈いま-ここ〉での実践を阻害してしまうことは、エメ・セゼールらによる「ネグリチュード(黒人性)」運動を、「人種主義に反対する人種主義の創出」として評価したサルトルが、その〈ネグリチュード〉の人種主義は必然的だが歴史的使命を終えれば消滅する「弁証法的進行の衰弱した時間〔否定的で一時的な契機〕」[サルトル 2000: 189]であると述べたことに対する、フランツ・ファノンの反発によって示されている(1)。ファノンは、ネグリチュード運動の支援者であるサルトルのそのような評価に対して、「観念と知的活動の次元で自分のネグリチュードを回復しようとすれば、それを私の手から奪い取ってしまうものがいた。私の営為は弁証法の一契機にすぎないと証明するものがいた」といい、「私は自分の最後のチャンスが盗み取られたと感じた」[ファノン 1970: 91]と述べていた。
ファノンが憤るのは、弁証法的な物語として表現される段階論に対してであり、その怒りは、黒人たちがいわば「異質な線」や「横断線」を引くことで歴史の予測不可能性に賭けて自らの意味を創りだそうとしている〈いま-ここ〉を、歴史的時間の一段階と規定し、それがもつ予測不可能性や異質な線の束(セミ・ラティス)を消してしまおうとすることに対して向けられている。ファノンはつぎのように言っている。「ごらんの通り[サルトルの論文では]、私が自らの意味を創り出すのではない。意味の方でそこに先在し、私を待ち設けているのだ」、「『君だって変るだろうよ。このわしだって若い時分には……まあ今に判るさ、すべては移ろいゆくものよ』ということばほど不快なものはない」[ファノン 1970: 92]と。
構築主義が設定した本質主義と反本質主義の対立というパラダイムに従うかぎり、ネイティヴの対抗的アイデンティティの確立ないし自己のポジションの固定化を肯定的に評価するためには、それを論理的には間違っているが一時的には必要であり、しかし同時に、最終的にはそれを否定しなければならない「弁証法的な一契機」としてとらえざるをえないだろう。そこでは、「発話のポジション」という視点は、たとえ本質的にではなく状況的にではあっても、一義的に規定され固定化されたポジションをめぐるアイデンティティ・ポリティックスに戻ってしまい、それがもっていたはずの〈いま-ここ〉の臨機応変さや雑種性・異質性の重視を忘却してしまうのである。
このように、戦略的本質主義では、「敵の論理を逆手に取るようなきわどい」戦術は、固定されたアイデンティティに付与される権利を獲得するために自己を主体化するための一段階としてのみ意味づけられていて、最終的には「マジョリティの主体を縛っていたありとあらゆる条件を背負い込んでしまう」から放棄しなければならないものとされる。そして、そこで前提とされているのは、アイデンティティを自認することで自己を主体化することが自己の肯定のために不可避なことだということである。けれども、そのような主体化の局面を、必要だが最終的には脱構築によって放棄すべき局面とみなすことは、主体化する前のマイノリティの生活を自覚のない「無為なもの」として否定してしまうことになるだけ� ��はなく、固定されたアイデンティティや固有の場を確保することができずに(つまり首尾一貫した主体化などなしに)、さまざまな異質な線をそのつど臨機応変にたどって変容しながら、他者に支配された場所のなかに自己のスペースをそのつど見出すことによってなんとか「生き抜く=息抜く」という日常的な実践を(アイデンティティを確立し自己を主体化するためには役立たないゆえに)否定することになる。
しかし、そのような日常的な実践こそが、固定されたアイデンティティ(種的同一性)や固有の場を確保しないものであるゆえに、「マジョリティの主体を縛っていたありとあらゆる条件を背負い込んでしまう」ことを避ける唯一の方途であり、さまざまな異質な線を含む関係の直接性による自己の奥深い意味づけを可能にするものなのである。そして、それは、日常的な生活の場において与えられたものを反復することで、現状の支配的なシステムを再生産しているようにみえながら、同時に近代のツリー構造のなかに横断線を引いて、それをセミ・ラティス構造に変えていくものなのである。それを見えなくしているものは、現状肯定にみえるシステムの再生産につながる実践と、システムの変革につながる実践と� ��あらかじめ別々のものとして分けられるということを前提としてしまう、近代に特有の社会改革の思想であり、それに含まれている発展段階論としての歴史的時間の思考なのである。
戦略的本質主義には、「アイデンティティの政治」を認めてしまうことで近代の支配のテクノロジーとしての種的同一性――いいかえれば、ツリー構造による提喩的アイデンティティ――を強化してしまう危険性があるということ以外にも、被抑圧者というカテゴリーをだれが規定するのかという問題点や、発展段階論を採るゆえに、被抑圧者が生き抜くために〈いま-ここ〉の生活で行なっている、見えづらいけれどもラディカルな変革を否定してしまうという難点があった。とはいっても、被抑圧者が本質主義的な言説を「戦術」的に流用する、すなわち、支配文化が規定している意味とは違う別の用い方をすることを否定するのではない。たとえ本質主義的な言説を用いたとしても、その反復ないし流用がツリー状の種的同一性をむしろ崩していくような条件を見出すことが重要なのだと言っているのである。そして、そのような条件こそ、固有の場を奪われ、他者の法が規定する場所で生きながらも、その「他者の場所」を自分の生活の場とすることを可能にし、そこで支配のツリー構造を無意識のうちにセミ・ラティス構造に変換してしまうような日常的実践を可能にする、人と人との� �喩/隠喩的つながりであり、非同一的な共同性なのである。
ところで、前にサバルタンについて「固有の場や首尾一貫性をもたないゆえの批判性」という言いかたをしたが、それは、ミシェル・ド・セルトーが『日常的実践のポイエティーク』のなかで行なっている、支配者の「戦略」と民衆の行なう「戦術」という区別を意識したものだった。ド・セルトーのいう「戦略」とは、意志と権力の主体が周囲の環境から身をひきはなしてはじめて可能となるような力関係の計算や操作のことで、そこに前提されるのは、目標の相手に対するさまざまな関係を管理できるように境界づけられた「固有の場所」であると、ド・セルトーはいう。そして、自分に固有の場所を与える「空間の分割は、ある一定の場所からの一望監視という実践を可能にし、そこから投げかける視線は、自分と� ��質な諸力を観察し、測定し、コントロールし、したがって自分の視界のなかに『おさめ』うる対象に変えることができる」[ド・セルトー 1987:101]と述べている。つまり、この「固有の場所」とは、対話や身体的相互性による諸関係から切り離されたアルキメデスの点であり、オリエンタリズムを可能にしていたもの、つまり「啓蒙主義的主体」の立つ場所にほかならない。
それに対して、「戦術」とは、全体を見通すことのできるような境界づけられた自分の固有の場所があるわけでもないのに、なんとか計算をはかることとされている。ド・セルトーは、
私が戦術とよぶのは、自分のもの[固有のもの]をもたないことを特徴とする、計算された行動のことである。ここからが外部と決定できるような境界づけなどまったくできないわけだから、戦術には自律の条件がそなわっていない。戦術にそなわる場所はもっぱら他者の場所だけである。したがって戦術は、自分にとって疎遠な力が決定した法によって編成された土地、他から押しつけられた土地のうえでなんとかやっていかざるをえない。[ド・セルトー 1987: 102]
と述べている。「戦術」とは、「所有者の権力の監視のもとにおかれながら、なにかの情況が隙をあたえてくれたら、ここぞとばかり、すかさず利用する」という「もののやりかた」であり、それは、固有の場所(首尾一貫したアイデンティティ)をもたないがゆえに融通の利く、臨機応変のやりかたを指している。そして、ド・セルトーは、この固有の場所をもたない実践こそ、日常生活のなかの「もののやりかた」の特徴なのだという。
戦略的本質主義のアポリアは、それが近代的支配のテクノロジーとしての啓蒙主義の枠内に囚われていることからきている。そのような枠組みにおいては、自己を肯定するにはひとまず自覚的・意識的なアイデンティティの確立が必要だとされているが、そこで確立されるの、他の人びととの関係や周囲との関係から切り離された啓蒙主義的な主体でしかない。つまり、そこでは、自己の肯定的な意味づけと他者との連帯ということが、首尾一貫したアイデンティティの意識的・自覚的な確立などなしになしうるということ、そして、そのような無意識的な〈いま-ここ〉の日常的実践こそが、提喩的な想像による種的同一性を基盤とする支配のテクノロジー――すなわちツリー状構造にもとづく支配者たちの「戦略」――を崩して、セミ・ラティス構造へと変えていくような横断線をおのずと引いてしまう「戦術」となっているということが見落とされているのである。
注
(1)サルトルのことばに対するファノンの反発については、松田素二氏の議論[松田 1999:212-213]を参考にしている。もっとも、ファノンの反発は、戦略的本質主義に潜む発展段階論にたいする告発であるけれども、ファノン自身はそれを本質主義的立場から行なっているとみることも可能ではある。
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