2012年5月4日金曜日

意外にも評価が高かった初期のヒトラーの政治手腕



●ところで、ヒトラーの国家的な健康管理は、想像以上の効果をあげていた。

当時のドイツの医学雑誌は、食物や飲み物の中の人工着色剤や防腐剤の悪影響について警告し、薬品、化粧品、肥料、食物についても、有機的で自然な素材のものに戻るように力説していた。ヒトラーの侍医であったテオドール・モレルは、殺虫剤のDDTは無効であるばかりか危険であると断言し、健康に対する脅威であるという理由で、1943年まで配布を延ばさせた。また、ナチスは党の事務所や待合室など、公共の場での喫煙を禁止した。

特効薬や抗生物質がまだ見つかっていなかったこの時代、日本人の多くは当然のように結核や感染症で死んでいったが、ナチス・ドイツは保健事業による公衆衛生の向上で、既に感染症を克服していたのである。

 


ナチスが作成した
反タバコ運動のポスター

ナチスは世界最大規模の反タバコ運動を
展開して、タバコの撲滅を目指した。
ナチスは党の事務所や待合室など、
公共の場での喫煙を禁止した。

 

●更にヒトラーの国内での人気を高めたのは、経済政策と並ぶ対外政策の成功であった。

ヒトラーはまず1933年10月、国際連盟と軍縮会議から脱退する。ヒトラーは言う、「いかなる権利も平等も持たないこのような機構の一員として名を連ねることは、名誉を重んじる6500万人の国民とその政府にとって、耐え難い屈辱である」と。
 
国際社会に背を向けるこの外交的ギャンブルは、しかし、第一次世界大戦の敗戦国としてベルサイユ平和条約の過酷な条件に屈辱感を抱き続けてきた国民を熱狂させた。


●20世紀最大の哲学者の一人として名高いマルティン・ハイデガーは、学生に語っている。

「総統をして国際連盟脱退に踏み切らせたものは、野心でも、激情でも、盲目的な我執でも、暴力への欲求でもない。それはドイツ国民の運命を支配するにあたって無条件に責任を負おうとする明白な願望以外の何物でもない。」

この世界的な哲学者は、ヒトラーを賞賛し、ナチスへの共感を積極的に表明した。彼は1933年にナチスの後ろ盾でフライブルク大学の学長に就任すると、ナチスに入党。大学からユダヤ人を排除した。(ハイデガーは1945年のナチ崩壊に至るまで一度も欠かすことなく党費を納め続けていた。彼の党員番号は第3125894番である)。

彼は戦後になってからも、かつての言動を反省する様子を見せず、ユダヤ人虐殺の惨事にも終始黙否し続け、厳しく糾弾された。なぜハイデガーがヒトラーに荷担したのか? 学問レベルでの論争もいまだに続いているが、ハイデガーとナチスをめぐる謎は明らかにされてはいない。

 


20世紀最大の哲学者の一人
マルティン・ハイデガー

ナチスに入党し、ヒトラーを賞賛。
ナチスへの共感を積極的に表明した。

 

●1935年春には、それまで国際連盟の管理下にあったザール地方が、住民投票で91%の賛成を得てドイツに復帰。

更に翌年にはラインラントの無血占領に成功。そして1938年には、オーストリア国民の圧倒的支持を受けてのオーストリア合併に成功。そしてその半年後にズデーテン地方を併合した。

このようにヒトラーは、わずか3年のうちに、ヨーロッパのドイツ語圏の全ての地域を手に入れてしまったのだ。しかもその領土拡大は、背後に常に戦争の危険をはらみながら、全く無血のうちに行なわれた。フランスやイギリスは、専門家の誰もが予想した武力介入を一切行なわず、むしろ暗黙の了解を与えてしまったのである。

 


方法コンゴは独立を獲得した


進撃したヒトラーを迎えるオーストリア国民(1938年)

横断幕には「我々は我らが総統を歓迎する」と書かれてある。

オーストリア国民は必ずしもナチスを支持していたわけではなかったが、
第一次世界大戦の戦勝国によって阻まれた「独墺合併」の悲願を
実現してくれるものとして、ドイツ軍を歓呼の声をもって迎えた
のであった。そして国民投票が行なわれ、99.7%の国民が
ドイツ・オーストリアの合併に賛成したのである。

 

●「我々はそのようなことを希望する勇気さえ持たなかった。なのにこの男は、あっさりと全てに成功する。彼は、神の使者だ。」

当時のドイツの大衆に見られた雰囲気を、ある歴史家はこう描いている。

ヒトラーの先を読む目のすごさに、ドイツ国民は感嘆していたのである。



●1936年夏には、ベルリンで「第11回オリンピック大会」が開催された。

今では当たり前となっている開会式の「聖火リレー」は、ヒトラーによって初めて行なわれたものである。

また、巨費を投じた競技施設と五輪史上初の選手村、擬似軍隊的な開会・閉会式、国家元首によるおごそかな開会宣言、「民族の祭典」というキャッチフレーズ、初のテレビ中継大会などなど、期間中の華麗な演出はまさに現代オリンピックの原型となった。

この「ベルリン・オリンピック」は、ナチスの力を世界に誇示する場となり、「ヒトラーの大会」とさえいわれた。

 

 
ベルリンで開かれた「第11回オリンピック大会」(1936年)

 
オリンピックの「聖火リレー」を最初に取り入れたのはヒトラーである。
上の写真は、そのオリンピック史上初の「聖火リレー」を撮影したもの。

 

●この「ベルリン・オリンピック」には49ヶ国4066人の選手が参加したが、ドイツは金メダル33個を獲得し、断然トップだった。

このオリンピックはドイツ人の「国民意識」に火をつけ、「ジーク・ハイル、われらの総統、アドルフ・ヒトラー!」という観客の叫びが自発的に湧き上がるほどであった。

ドイツ国民はオリンピックを通じて、ナチスが国際的に受け入れられたと信じた。


●また、この大会の記録映画『オリンピア』(邦題・第1部『民族の祭典』、第2部『美の祭典』)は、

1938年のベネチア映画祭で金賞を獲得するなど各方面で絶賛され、不朽の名作となっている。

 

 
レニ・リーフェンシュタール。ベルリン・オリンピックの記録映画
『オリンピア』の映画監督を務め、ベネチア映画祭で金賞を獲得。


 
映画 『オリンピア』のDVD
(邦題・第1部『民族の祭典』、第2部『美の祭典』)

勝敗の結果ではなく、競技する人間の生み出す
最高の美しさを、華麗なカメラワークと当時
最高の撮影技術を駆使して捉えている。

この映画は戦後、アメリカで選ばれた
世界映画ベスト10に入っている。

 

●あるドイツ人教師は、オリンピックで見たヒトラーについてこう回想している。

「周りのおばあさんたちは、まるで救世主が現れたように、すすり泣きしていました。……私もはずかしいことですが、一緒に歓声をあげたことを、白状しなければなりません……」


どのように私は、ギリシャの新聞を購入することができます


(ちなみに、この「ベルリン・オリンピック」に参加した日本は、合計18個のメダル──金6、銀4、銅8個──を獲得し、「前畑がんばれ」のラジオ放送は日本中を熱狂させた。閉会の言葉は、「また4年後に東京で再会しよう」だったが、日中戦争の激化で日本はこれを返上。東京オリンピックは"幻"となる)。

 

 
スタジアムを訪れたヒトラー(左)とナチス式敬礼をする観客たち(右)

この「ヒトラーの大会」とさえいわれたベルリン・オリンピックは、
「国威発揚」のプロパガンダとして空前の成功を収めた。

※ この「第11回ベルリン・オリンピック大会」以後、オリンピックの
やり方がガラリと変わってしまった。(古代オリンピックの精神は
消えてしまった)。個人の力を競う大会ではなくて、個人の力を
利用して「国家を宣伝」する大会になってしまったのである。
だから、政治的にも大いに利用されるようになった。

 

●ヒトラーの優れた伝記作家のひとり、ジョン・トーランド(アメリカのピュリッツァー賞作家)は書いている。

「もしもヒトラーが政権獲得4周年の1937年に死んでいたとしたら、疑いもなくドイツ史上の最も偉大な人物の一人として後世に名を残したことだろう。」
 
ノーベル文学賞受賞者で、痛烈な皮肉で知られるイギリスの評論家バーナード・ショーは、雑誌や新聞、演説でヒトラーを弁護し、かつての仲間の社会主義者たちの抗議の嵐を浴びた。更には、反ファシズム活動でも知られる画家ピカソや作家ヘミングウェイに、パリで直接影響を与えたアメリカの知性派女流作家ガートルード・スタインは、「ヒトラーにノーベル平和賞を与えるべきだ」とまで考えていた。

 


米誌『タイム』の表紙を飾った
アドルフ・ヒトラー

アメリカの雑誌『タイム』は、
1923年に創刊したアメリカの週刊誌であり、
世界初の「ニュース雑誌」としても知られている。

この雑誌が毎年決定する「パーソン・オブ・ザ・イヤー」の
 第12回目の受賞者はヒトラーだった(1938年)。

 

●だが、もちろんヒトラーは、そんな賛美者たちがイメージしたような単純な救世主ではなかった。

彼は次第に、同時代の知性を超える精神構造、いやオカルティックな"狂気"を垣間見せるようになる……。



●ところで余談になるが、セバスチャン・ハフナーというジャーナリストが、1978年に書いた『ヒトラー注釈』という本は、戦後西ドイツでベストセラーズの上位を占めたが、それ以上に賛否両論の渦を巻き起こした。

なぜ問題になったかといえば、「仕事」とか「成功」という章で、ヒトラーがなぜ当時のドイツ人の心をつかんだか、つまりなぜモテたかを、かなり公平に分析し提示したためである。ハフナーはある時期までのヒトラーを評価して、なかなかの政治家であったと認めたのである。

もっともハフナーという男は、反ユダヤ主義に染まったネオナチな人間ではなく、ヒトラー政権下でイギリスに亡命したれっきとしたユダヤ人である。『ヒトラー注釈』という本は、ユダヤ人がヒトラーを評価したという意味で、反響が大きかったのである。そのため、ユダヤ人側からも、ヒトラーを評価しすぎるとの抗議が出たほどであった。一般のユダヤ人にしてみれば、ヒトラーという男は20世紀最大の"悪魔"なのだから、彼に関して少しの肯定的評価を下すわけにはいかないという心情があるのだろう。

 


誰がテキサス州への最初の幌馬車隊をリード

 
(左)ユダヤ人ジャーナリストであるセバスチャン・ハフナー
(右)彼の著書『ヒトラー注釈』。この本以外にも、
彼は数多くの歴史書を書いている。

 

●無論、ハフナーにしても「失敗」「裏切り」という章においては厳しくヒトラーを裁いている。

例えば、「ヒトラーがもし第二次世界大戦を起こさなかったら、世界政治家の中で名を残したかもしれない」などという仮定を、彼は一蹴している。ヒトラー体制は「戦争体制」であって、もし戦争を起こさなかったら……という仮定は生じえないのだと言っている。つまりヒトラーの最終目標は、ドイツの抹殺だったのだ、というのである。

 

 


 

■■おまけ情報


文芸評論家の加藤弘一氏は、「ヒトラーの政治」について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。


「ヒトラーについてはあらゆることが言われてきた。金髪の美女を追い回した漁色家にされるかと思えば、身体的に問題のある性的不能者ともされた。第二次世界大戦はユダヤ人を絶滅するために起こしたとされる一方、ヒトラー自身がユダヤ人の血をひいているという説も根強い。

こうした説の多くはヒトラーの生前からささやかれてきたもので、ナチスの政治宣伝に対抗する逆宣伝や俗説の類が多いが、『ナチス断罪』に急なあまり、客観的な評価の試みを無視してきた風潮が混乱に輪をかけたといえる。

意外に思う人がいるかもしれないが、ナチスが合法政権だったことは否定しようのない事実である。レーニンは暴力によって権力を握り、選挙に負けると国会を閉鎖したが、ナチスは世界で最も民主的だといわれたワイマール憲法の下で、公正な選挙によって政権を取り、その後も何度も国民投票を行なって民意を確認しているのである。

『強制収容所』などはレーニンの施策から取り入れたものだが、ヒトラーは暴力革命路線と民主集中制は採用しなかった。」


「ナチスが、終始、暴力的なユダヤ人迫害を主張してきたとする見方も間違っている。『我が闘争』の主張と、強制収容所での虐殺があまりにも強烈なので、どうしてもそう錯覚しがちだが、ミュンヘン蜂起失敗後、ナチスは平和的な議会主義路線に転じ、反ユダヤ主義の主張も選挙民に受け入れられるようにトーン・ダウンされていた。

従来、ナチスの自作自演とされてきた政権獲得直後の国会放火事件も、今日では当時の判決どおり、オランダ共産党員だったルッベの単独犯行とする説が定説である。ナチスは、この放火をドイツ共産党による組織的犯行と断定し、共産主義の脅威を言いたてて一党独裁体制への道を開いたが、すべてをナチスの謀略だったする説も、反ナチス側の政治宣伝にすぎなかったのだ。

ナチスの戦争犯罪は断じて許されるものではないが、今日、ヒトラーとナチスを論じることは、ある程度、彼らの名誉回復をともなうものとならざるをえない。

〈中略〉

資本主義の発達は伝統的な共同体を解体し、人間を孤独な個人として競争社会の中に放り出したが、寄るべない個であることからの救いを宗教以外に探すとしたなら、マルクス・レーニン主義のように、自己の根拠を国際的な労働者の連帯という階級神話に求めるか、国家社会主義のように民族の連帯という人種神話に求めるしかない。

ヒトラーは『国際的な労働者の連帯』を『ユダヤ的社会主義』と呼んで否定したが、ユダヤ的云々はともかく、そのような抽象的な『連帯』で人間が救えるかという主張と見るなら、困ったことに、それなりの説得力を持っている。


ハイデガーをはじめとするヨーロッパ最高の知識人がナチスに傾倒したのは、『民族の連帯』という神話にある種のリアリティを認めたからだが、しかし、あくまで神話にすぎない以上、ナチズムも共産主義同様、団結を維持するために人民の『敵』と強制収容所を必要とした。個であることの不安から逃れようとする人々がいる限り、新たなヒトラーはこれからも登場するだろう。」

(文芸評論家・加藤弘一氏の記事/雑誌『週刊宝石』1990年より)

 

 


 

■■追加情報


●上のほうで紹介した、ナチスの記録映画の制作に協力したレニ・リーフェンシュタール

戦後、世界中のメディアから、「ナチのプロパガンダに協力した御用監督」、「ヒトラーの"お抱え監督"」と呼ばれ、厳しい批判にさらされた。


●映画界から追放され、友人たちからも疎外され、様々な中傷を浴び続けた彼女は、

涙ながらにこう訴えていた。

「あの頃、ドイツ人は誰もヒトラーのことを疑ってませんでした。ナチスの政権が始まってわずか1年600万人もいた失業者激減したんです。短期間に生活はすごく良くなりました。戦争がこれから始まるなんて、誰も考えていませんでした。

あの当時、ナチスに反対する人なんていなかったんです。誰ひとりとして!」

「私はナチ党員ではありませんでしたし、ユダヤ人迫害賛成したこともありません……。

私が興味があったのは、"美"だけでした……」



●彼女は70歳を過ぎた頃、「スキューバー・ダイビング」の免許を取り、2000回にもおよぶダイブによって収めた海中映像や、アフリカのヌバ族を撮影した写真集を出し、世間をアッと驚かせた

その後も、彼女は精力的に芸術分野の仕事を続け、2003年9月8日に亡くなった。

享年101歳だった。

 

  
レニ・リーフェンシュタール(1902〜2003年)

〈ART&LIFE 1902-2003〉

ドイツのベルリン生まれの
舞踏家、女優、映画監督、写真家

※ 彼女の最期を見届けた人によれば、
「自然に鼓動が止まる安らかな死だった」という

 

●ちなみに、彼女は死の3年前(98歳の時)、ヒトラーについてこう語っている。

「ときどき私は、ヒトラーの夢を見るわ。そして、刺し殺してやろうと思う。

でも、なんだか、母親息子を殺そうとしているような、そんな気持ちになってしまう……。

だけど、彼は殺さなくてはいけない人間なの」


●長生きのコツについては、こう語っている。

「どんなことがあっても……、人生に『イエス(Ja)』と言うことよ」



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