東京財団 新・解体新書「グローバル化」をひもとく
「文明化」という言葉は何を意味するのだろうか。これは明白なことだが、高等教育を受け、ネクタイを締め、フォークで食事をとり、週に一度手足の爪を切るだけでは「文明化」されているとは言えない。これらの形式的な作法を習得したからといって、その人々がまるで無教養に振舞うことがなくなるわけではなく、これは万人周知の事実である。「文明化」の本質はむしろ生活様式の相違を超えて他者の人間性を認識、受容することにあり、これは時代と地域を選ばない。
以上に述べたことは自明のようにも思えるが、普遍的に受け入れられているわけではない。また、文明間の対話という考えはおおむね好意的に論じられるが、冷笑の対象となることもしばしばである。たとえば、エリー・バーナビーが最近発表した論文「諸宗教の殺意」(Les religions meutrieres)の結論部分は「諸文明の対話に反して」と題され、彼は「一方に文明があり、もう一方に野蛮がある。この二つの間には対話の可能性などないのだ」と断言している。
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しかし、彼の議論の筋道をより子細にたどると、バーナビーの議論の欠陥がすぐさま明らかになる。なぜなら、「文明(civilization)」ならびに「文化(culture)」という言葉は単数と複数では大いに意味が異なるからである。文化(culture)は複数で用いられると複数の人間集団の生活様式を指し、それぞれの集団の成員が共有する言語、宗教、家族構造、衣食住などをその内容としている。したがって、この意味での文化(culture)はいかなる価値判断も含まない記述的範疇である。
これとは対照的に単数の文明(civilization)は価値判断を含む規範的範疇であり、野蛮(barbarism)の対極に位置する。したがって、諸文化間の対話は有益であるばかりか、文明にとり不可欠なものである。いかなる文明も対話なしには存立できないのである。
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「文明の衝突」という言葉が喧伝されている。しかし、異なる諸文化間の交流は日常的かつ平和的に生じており、これが可能となるのは我々の心中に文化的交流に対する心理的準備ができているからである。我々は誰しも複数の文化の産物であり、このことは母国の外に一度も足を踏み出したことがない人にも当てはまる。なぜなら、文化は国民文化に限られたものではなく、我々はそれぞれの性別、年代、貧富、階層、職業に応じた文化を担っているからである。
この文化の複数性は特に問題を引き起こすことはなく、その理由は一つの文化コードから他の文化コードに移行する能力を誰しも備えているからである。我々は一日に出会う人々すべてに同様の話し方をすることはないが、これは相手に応じてコードを変えているからである。
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さらに、一定の地域内の文化は決して「純粋」ではない。フランスの歴史をさかのぼってみると、ガリア諸族、フランク諸族、ローマ諸族など多くの民族集団の交流により多様な文化が形作られてきた。世界の至る所で(ただし、いくつもの部族が互いに孤立して隠れ住むニューギニアの諸渓谷は例外と思われる)我々が目にするのは複合文化のみである。しかし、いくつかの文化がその複合性を誇りとする一方で、他のいくつかは複合性をひた隠しにするのも事実である。
異文化間の対話という考えはしばしば不自然もしくは叶わぬ願望とみなされるが、これは我々が激しい政治的対立の解決という難事を対話に期待するためである。そして、対話は慈愛を伴うものではあるが、人々の行動の自由、領土や天然資源の帰属といった問題を解決することはできない。政治と文化は同じ次元で営まれるものではなく、政治が行動を統御する一方、文化は心情に訴えようとするのである。また、政治は時々の状況に対応していくが、文化は数世代かけて結果を生む。
したがって、我々はまず基本的かつ着実な手法により対話を促進するべきであろう。他国の思想や文学の翻訳を盛んにし、大学生の海外留学を増やすべきであり、外国語教育や異文化研究を強化するとともに、(フランスとアルジェリアが行ったように)国際的な歴史的出来事について意見を交わすべきである。
こうした取り組みは欧州連合においてすでに始まっており、その輪を北アフリカ、中東、インド、中国、日本、中南米などに広げていくべきである。そして、対話を始めるにあたり最も重要なことは陳腐な決まり文句や一般論にとらわれることなく、人々の交流の促進に力を注ぐことである。
目下のところ政治が優越的な地位を占めている。しかし、見方を変えるならば、対話は武力行使や個々の信条への固執を克服できるはずである。なぜなら、対話は我々を真の人間性に導くからである。
作家のアンドレ・シュバルツバルトは次のような逸話を語っている。あるユダヤ教の指導者がコウノトリについての質問を受けた。コウノトリはコウノトリ同士で相憐れむためヘブライ語でHassada(愛情深い)と呼ばれるが、それにもかかわらず忌避すべき動物の一つとされている。その理由を問われたのである。すると指導者は「コウノトリはコウノトリしか愛さないゆえなり」と答えたという。
(プロジェクト・シンジケートより翻訳転載。Copyright: Project Syndicate/Institute for Human Science, 2008.) Read more(外部リンク)
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