歴史はいつも、アウトローが作った ― 草下シンヤ :: ARTIST GUILD SKIN
【革命家】チェ・ゲバラ
1928年アルゼンチン生まれ。1959年のキューバ革命をカストロと共に成就させる。チェ・ゲバラの「チェ」とは、相手の親しみを込めて呼びかける際のアルゼンチンの言葉である。ゲバラは仲間から「チェ」と呼びかけられることが多く、それがそのまま愛称の一部になった。1967年ボリビア戦線で銃殺される。
キューバ革命の立役者といえば、誰もがチェ・ゲバラとカストロを思い浮かべるだろう。
しかし、この2人、共にキューバ革命を成功に導いた同志でありながら、その後の人生は大きく異なっている。
カストロは現在もキューバの首相として君臨している。彼には「世界一暗殺の危険にさらされている人物」という異名もあるが、そのカリスマ性と強靭な精神力によって、ことごとく危機を跳ね除けているように見える。
それに比べ、チェ・ゲバラは革命後、キューバを去り、1967年、ボリビアの山中で殺害された。
この差はどこにあるのか?
大きな理由の1つとして、「ゲバラはキューバ人ではなかった」ことが挙げられるだろう。
誤解されていることも多いが、ゲバラはアルゼンチン人であり、キューバ人ではない。カストロと共にキューバ革命を成就させたが、それは「祖国のため」の行為ではなかったの� ��。 このことはゲバラの人生に大きな影を落としている。
もし、彼がキューバ人であったなら、革命後はキューバの再建のために、すべての労力を注ぐことができただろう。
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実際にカストロはそうだった。 革命直後の政府は赤子に等しい。それまでの国家の地盤がすべて失われるのだから、治安や経済は非常に不安定な状態にある。そんなときにアメリカなどの大国からの外圧を受ければ、大きく揺らいでしまう。
そこでカストロは、第2の戦いにも勝たなければならないと考えた。 キューバを自立させるための戦いである。 だからこそ、カストロは、凱旋パレードの際に隊列の先頭に立つことを選んだ。 周囲からはこのような声が上がった。 「暗殺の危険があるから、隠れていてほしい」 しかし、カストロはこう言い放つ。
「人間、死ぬ時は何処にいても死ぬ。自分の命を惜しんでこそこそ隠れているような指導者に一体誰がついてくるというのだ」
これは彼の、本番はこれからだ、という並々ならぬ意志の表れだろう。 キューバの再建に全力を尽くそうとしたのはゲバラも同じである。しかし、そのスタンスは、どこかカストロとは違っている。
この時期、ゲバラは母親に宛てた手紙の中でこのように書いているのだ。
「私は以前と同じ、自分の道を探して旅する自由な一人の人間ですが、今はキューバのために働くことに喜びを感じています」
この文面からは、自分の立ち位置がキューバそのものにはないという心情が伝わってくる。 ゲバラがキューバを語るとき、そこに「祖国」という言葉はない。 革命後、ゲバラはキューバ国籍を与えられているが、自分のことを心底からキューバ人と思えたことはなかったのではないだろうか。
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初めのうちはそれでもよかった。
しかし、キューバ再建の流れの中で、ゲバラとカストロは意見が食い違うようになってくる。 特に冷戦の影響をもろに受けたキューバ危機で、その食い違いは決定的なものになる。 カストロはキューバを守りたいという一心で、ソ連を見方につけようとしていた。
それに対し、ゲバラの取った態度は間逆のものだった。世界の不平等を生んでいるのは、冷戦の構図そのものであり、ソ連はアメリカと共犯行為をしているのと変わらない、と痛烈に批判したのである。
この時点で、ゲバラはキューバのナンバー2だった。 その彼がソ連を批判するということは、キューバよりも自らの意志を選んだ、と言うこともできる。 このとき、ゲバラは、「自分にはもうキューバでやることはない」そう悟っていたのだろう。
その後、彼はカストロに宛てて長い手紙を書いた。
一部を抜粋する。
「今、世界の他の国が、僕のささやかな力を求めている。君はキューバの責任者だからできないが、僕にはそれができる。別れのときがきてしまったのだ」
この手紙からは全編に渡って力強さを感じるが、それと同時に、自分はやはりキューバ人にはなれなかった、という思いも伝わってくる。
そしてゲバラはキューバを去り、新たな戦場に身を投じていく。
彼が選んだのは、アフリカのコンゴだった。 この当時、アフリカでは独立運動が盛んで、ゲバラのもとに軍事顧問として働いてくれないかという要請がきていた。 ゲバラはそれに応え、コンゴの独立運動に協力することを決める。
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しかし、このコンゴ戦線でゲバラは深い挫折を味わうことになる。 解放軍の兵士たちは士気が低く、ゲバラの言うことを聞かなかったし、キューバで通用していたゲリラ戦の方法も空振りに終わることも多かった。 7ヶ月に及ぶ戦闘を繰り広げたが、ゲバラは敗走を選ばざるをえなかった。
コンゴから脱出したゲバラは、タンザニアに入り、しばらく沈黙する。
彼にはキューバに戻る気はなかった。 カストロからは、戻ってきてほしい、という再三の打診があったが、ゲバラはそれを断り続ける。 このときの心中には計り知れないものがあるだろう。
ある日、ゲバラは、日記の最後にこんな1行を書く。
「私は、一体誰だったのだ……」
これはどこにも居場所を見つけることのできなかった、ゲバラという1人の人間の、心からのつぶやきに思えてならない。
その後も彼は、革命の民として生きる道を選ぶ。 3ヶ月ほどの沈黙の後、ボリビアでの解放活動に加わっていくのだ。
そして、これがゲバラ最後の戦いになる。
1967年10月8日、ゲバラは184人もの政府軍の兵士に囲まれていた。 その圧倒的な数に対し、こちらは数人の兵士がいるだけである。
ゲバラは捕らえられ、射殺された。
最後の言葉は、銃を向けた兵士に対しての「おい、恐れるな、撃て」だったと言われている。
ゲバラといえば、誰もが、口ひげを生やし、遠くに目をやっている写真を思い浮かべるだろう。 または葉巻をくゆらせる姿を浮かべるかもしれない。
ゲバラのトレードマークにもなっている、この口ひげと葉巻。
これはファッションや嗜好の一環として行っていたものではない。ゲリラ戦は主に山中で行われる。そのとき、最も鬱陶しい敵が「虫」であるという。
葉巻の煙は時に虫除けになる。 そもそも喘息持ちだったゲバラはそのために葉巻を吸うようになった。 ひげも同じように、山中での虫対策として伸ばし始めた。
それは革命家として生きる中で、自然に行き着いた姿である。
もしかしたらゲバラは、どこにも居場所を見つけることができなかったかもしれない。 しかし、口ひげを生やし、葉巻を持つゲバラの写真の中に、人はゲバラの生き方そのものを見出すのだろう。
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