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イースター島(Easter Island)- イスラ・デ・パスクア(Isla de Pascua)
南米大陸から3700km、タヒチから4000km離れた絶海の孤島。現地では現在「ラパヌイ」とも呼ばれ、「世界で一番遠い島」の異名を持つこの島には独自の文明が栄え、世界的に有名な石像建造物「モアイ」をはじめ、未だに解読されていない文字「ロンゴ・ロンゴ」、無数の岩絵を残した「鳥人儀式」等、他では見られない不思議で溢れている。18世紀にヨーロッパ人が「発見」するまでの記録がないため、その殆どは謎に包まれたままでとてもミステリアスな島である。周囲が60km弱と、とても小さな島だが、その中にモアイが約900体もある。その半数近く、約400体が集まるラノ・ララク(Rano Raraku)は必見。モアイの切り出し場として知られ、彫っている途中のものや完成して運び始めたもの等、今もそのままの状態で残されている。
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日本の建設会社(四国・高松のタダノ)が修復に携わった島内最大級の祭壇、トンガリキ(Ahu Tongariki)も見逃せない。復元されたモアイは全部で40体程だが、そのうちの15体、6〜8mのモアイが整然と並ぶ姿はまさに圧巻。またイースター島では自然の雄大さも味わうことができる。鳥人儀式が行われていたオロンゴ(Orongo)からの眺望、直径1500mもある巨大なラノ・カウ(Rano Kao)の火口、無数にある洞窟等、これらも外せない見所である。車では入って行けない部分も多いため、馬を利用して現地人に案内して貰うのもいい。
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島を囲む海は世界一澄んでいると言われ、ダイビング、サーフィンなどのマリンスポーツも盛んである。海水浴を楽しむにはヤシの木が生える白い砂浜のアナケナ海岸(Playa de Anakena)がお勧め。年間を通して島の海水温はそれほど上がらず、強い夏の日差しの下では心地良く感じる。 イースター島にはどうしてモアイがあるのか?それさえもまだはっきりとはわかっていない。最大の魅力は何と言っても神秘のヴェールに閉ざされたイースター島そのものではないだろうか。
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イースター島の歴史
イースター島の起源は、遠い昔に太平洋の中に沈んでしまったパシフィス大陸の一部であったという説、イースター島の文化はオセアニア・メラネシア諸島からきたという説、巨石建造物で有名な南米のティワナコ文明・インカ文明とのつながりからフンボルト潮流と貿易風により南米からきたという説など様々な説があるが、これといった決め手となる証拠はなく、いまだ謎に包まれている。
1722年オランダ海軍提督のヤコブ・ロッヘフェーンが3隻の船でこの島に上陸。その日がキリスト教の復活祭にあたっていたため、イースター島と名づけられた。
1770年当時ペルーを治めていたスペイン副王が、この島に目をつけ英国、フランスに先駆けて自国の艦隊を送り、その指揮下においた。スペイン人船長はドン・フェリペ・ゴンザレスで島を「サン・カルロス島」と命名。
その後、英国のキャプテン・クックが1774年に上陸。クックの日記に当時の様子をこのように記している(「この島の住民の容姿、言語、生活習慣に関して、フィジー、タヒチなど西方の島民と共通性があり、同じ祖先を持つと思われる」)。重要なことは、52年前のロッヘフェーンが記録した島の様子では、モアイはまだ引き倒されていなかったという点である。クックが上陸したころにはすでにモアイ像は倒されており、外国人の来訪が島民の生活や宗教儀式に影響を及ぼしていたと想像できる。
19世紀に入ると捕鯨船や真珠採取船などの欧米の船が多数上陸するようになる。そして1862年に悲劇が起きる。ペルーで盛んに行われていたリン鉱石の採掘人夫の調達として、このイースター島の島民が奴隷狩りの対象となった。
その数1000人といわれ、各国から非難をうけ1年後に奴隷解放するも過酷な重労働ですでに900人余りが死亡。残り100人は帰還する船の中で蔓延した天然痘に罹患して、大半が死亡。最終的にはわずか15人程度が生還したといわれている。奴隷として連れ去られ死亡した中には、もちろん王やその身内、神官なども含まれており、島の貴重な文字、ロンゴロンゴを読める人はその後いなくなったという。
1865年タヒチから来たフランス人実業家が島の王族の娘と結婚し、島を自分の支配下に置いたが、のちに暗殺され、その後引き継いだフランス人実業家が島を解放した。
1888年チリ(戦艦艦長ポリカルポ・トロ・ウルタド)がイースター島の領有宣言を行い、以降スペイン語の「イスラ・デ・パスクア」と呼ばれることになる。
2つの世界大戦後、1966年に島の自治が認められ、1967年以降観光地としての道を歩み始める。
1995年世界遺産に登録されました。
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