2012年4月6日金曜日

Red Fox 清朝時代の処刑写真を日本のものとして展示しているサイト


 当ブログでは支那事変をこれまで何回か扱った事があるが、その関係で中国の公開処刑に関して調べものをしていて、中国の斬首写真ばかりを集めて掲載している『Beheaded Art』というサイトに行き着いた。

 そのサイトのトップの解説文にはいささか捨て置けない事が書かれている。

BEHEADED ART
首のない芸術
BEHEADING

Beheaded Art is about public beheading. View more than 100 pictures and drawings of capital punishment by decapitation at Beheaded Art.

Beheadings in China or Japan (馘首) were often photo graphed by foreigners and this is where most of the execution photos available at Beheaded Art come from.

If you are offended by pictures of blood and death and decapitated (馘首) bodies – you might not enjoy this web site.

打ち首

『Beheaded Art』は公開斬首に関するものである。このサイトでは100点以上の断頭刑の写真と絵を見る事が出来る。

中国や日本の斬首 (馘首) はしばしば外国人によって撮影され、このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている。

もしこれらの写真の血まみれの斬首 (馘首) 死体で気分が悪くなる方はご遠慮頂きたい。

 このサイトには106枚の写真と21枚の絵が掲載されており、その写真の大半が中国や日本の首切り写真であるとの説明だが、見たところそれらは全て携帯用カメラが商品化された19世紀末以降の、清朝末期から辛亥革命 (1911)、そして上海クーデター (1927) 時に中国で撮影されたとみられる写真であり、日本の斬首と見られるものは見当たらない。

 ところがこのうち2点3枚が日本の長崎で撮影されたと説明されており、そしてタイトル (説明文) に「Japanese」の単語を含む写真が以下の4点5枚。


註:本エントリーでは写真の検証のため清朝時代の斬首写真を掲載しているため、好ましくないと感じる方はご遠慮下さい。なお残虐写真に関してはモザイク処理を行っており、全ての写真はクリックで無修正版がオリジナルサイズで見られるように設定している。

『Beheaded Art』のトップページは「full details」と「thumbnails」の二つのモードがページ下部のメニューで切り替えられるようになっており、「full details」の方で説明文が表示されるようになっているが、ブラウザによっては写真を読み込まないケースがあります。その場合は「Full details」専用のURLがあるのでそちらで試してみて下さい。

なお『Beheaded Art』の元サイトは本エントリー掲載の4点より遥かに残虐な写真も掲載されているため、訪問する方はご注意下さい。




 これは絵葉書上に赤文字で書かれているイタリア語では「北京」と書かれているのに、その英訳では「北京」が抜け落ちているためにまるで日本国内での処刑と誤解されるような書き方になっている。
 しかしここに写っているのは刀を持った2名以外はチャイナ帽 (清朝官帽) の清兵や頭にターバンを巻いたインド兵。
 絵葉書上部には中国語でも「北京東洋人殺頭」と書いてあるので、これは漢字の読めないサイト主がイタリア語から訳し忘れたか、意図的に「北京」を取り除いたかのどちらかとなる。

 上記2点が日本の長崎での撮影と説明されているもの。しかしここにも清兵やインド兵が写っている。


 これは撮影場所や時代の記述はなし。『Beheaded Art』にはこの写真と同じ時に撮影されたとみられる連続写真数枚が掲載されており、それらの写真で確認出来るのは群衆と死刑執行人は弁髪やチャイナ帽をかぶった清国人、ヨーロッパ人らしき兵隊が処刑見物をしているのと、建物の窓が中華式の格子窓であるという事。(連続写真に関しては本エントリー後半の写真の検証の項を参照)

諸条件から1900年の北京の北清事変における義和団の処刑写真と見られる

 これだけの条件が揃えば近代大陸史を知っている人ならすぐにピンと来るはずであるが、少なくとも写真1-3は1900年の北清事変 (義和団事件) で義和団鎮圧のために清国に派遣された大英帝国、アメリカ合衆国、帝政ロシア、フランス、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国、大日本帝国からなる八ヶ国連合軍が、8月14日に北京を陥落させた後の義和団掃討作戦における残党処刑の際に撮影された写真であり、写真4は兵士の服装からその年の冬に連合軍占領下の北京で撮影されたものと推定される。

 連合軍による義和団の掃討作戦は1900年9月に集中的に行われ、義和団の残党は連合軍側に寝返った清朝側に処刑をされ、これらの写真のように清国の兵士の立ち会いのもとで連合軍の将校が処刑を行ったケースもあったようである。


illonis日付とどのように発生した

 当時の清国では公開斬首処刑というものは普通に行われており、当時既に公開処刑が廃止されていた欧米の将校も清国の流儀に倣って処刑を行い、その一部に日本軍将校による処刑写真も存在しているというのがこれら上記の写真である。
 現存する義和団処刑写真の殆ど全ては写真4のように清国人執行人による刑執行であり、中国サイトなどでも多くの義和団処刑写真が掲載されているのを見る事が出来る。
 反日サイトなどを見るとこれらの処刑が何でもかんでも日本のせいにされているが、執行人や官憲の服装や髪型を見ればそれらが日本人でないのは一目瞭然というケースがかなりある。

 従って『Beheaded Art』に掲載されている写真1の絵葉書に「日本兵による処刑」と書かれているのは、これは史実的には間違いではないが、これが「北京で行われた」の部分が抜け落ち年代が書かれていないために、1900年当時の軍装と八ヶ国連合の歴史を知らない人が見た場合に、"有名な"南京と混同されかねない誤解を生じ易い展示になっている。

 この時代以降には、清国の処刑写真は欧米で絵葉書に印刷され広く出回り、辛亥革命時 (1911) や上海クーデター (1927) 辺りの処刑写真はダフ屋が外国人に売りつけたりなどして、当時中国に駐留した欧米軍の兵士が多数それらの写真を自国に持ち帰ったり、米国議会図書館の蔵書として保管されたりなど、そういう元々出所の不明な写真が近年はネットに広がっており、中国の反日サイト辺りではそれらが支那事変時の「日本兵による蛮行」の写真として掲載されるなど捏造のネタにもされているが、『Beheaded Art』は恐らく古物屋で見付けた写真や絵葉書を、誰が書いたか分らない説明の真偽を確認せずにそのまま書き写しただけであろうと思われる。

 いずれにしても、これらの写真が日本国内で撮影されたものではないのは明らかであり、問題は特に「長崎で撮影」と表記されている写真2と3、そして日本撮影の写真が掲載されていないにもかかわらず日本が中国と同列に扱われているサイトトップ文である。

 このサイトがメールフォームを持っているので、サイト主に訂正要求を出そうかと検討中であるが、こういうクレームの場合「ナショナリズムに駆られた感情的なクレーム」との印象を持たれ易いため、学術的な根拠を提示するのが得策ではあると思われる。


 尤もこの調査は、非常に不鮮明な写真に写っている人物の特徴も掴みにくい状態から開始しており、取り合えず写真に写っている兵士の軍服の様式からその年代を正確に特定しようと考えたが、私も軍装には詳しくなくネットでは日本軍の資料を集めるにも限界があるため、私が出入りしているミクシィコミュニティの国内在住の方に情報提供をお願いしたところ3人から協力があり、結果的には当初の目的とはまた別に興味深い内容の展開となった。

 写真を図例で示すなどビジュアル的にも分り易い提示があったこの議論を埋もれさせるのもなかなか勿体ないので、折角なので今回は共同研究として、そのコミュニティトピックのやり取りから読み易い形に再編したものを、元の雰囲気を活かしたトピック形式で紹介させて頂く。

 今回の調査には、それぞれHNで貞子さん、ブログ『JPN Archinve 日本館』のHazamaさん、そしてポチョムキンさんのお三方にご協力頂いた。

海軍か陸軍か

 北清事変にまず派遣されたのは5月31日の「愛宕」の海軍陸戦隊で、それから6月10日の「笠置」陸戦隊、そして7月6日〜8月16日の陸軍第五師団となっているが、『Beheaded Art』に写っている日本軍将校等の軍服の特徴がこの時代の陸軍か海軍の軍装のいずれかと一致するものが見つかれば、服装からも年代が特定出来るという事になる。

帽子の検証

 上記の議論では『Beheaded Art』に写っているのは1886年 (明治19年) 式陸軍軍衣に一番近いという事になったが、唯一一致しないのが帽子であり、帽子に関する検証を行った。

 という訳で、劣悪な条件でプリントされたり、絵葉書に印刷されたりなどもともと不鮮明な写真で更にウェブサイトの72dpiの解像度という、細部を判別するのに困難を極める条件ながら、結局のところ、これらの処刑写真の日本兵は、陸軍の明治19年 (1886) 制式 (明治19-38年/1886-1905) の軍服に、陸軍の第一種帽 (正帽) の礼装スタイルであろうという結論に取り合えず落ち着いた。


ロシアは何を食べていない

 そうすると軍装の特徴から時代的に当て嵌まるのが日清戦争 (1894-95) か北清事変 (1900) となり、インド兵の存在、それから処刑に清兵が立ち会っている点から、写真1-3は100%北清事変時の撮影、そしてフランス兵と日本兵が立ち会い清朝執行人が処刑をしている写真4はその年の冬の北京での撮影と結論を出していいと思う。

 この『Beheaded Art』が一体どういう主旨で残虐写真ばかりを集めたサイトを作っているのか分らないが、同サイトの「リンクページ」には、「斬首の歴史」のような学術的アプローチもあるものの、その他には「死刑執行人のインタビュー」「アラブの死刑写真」そして、サイト主が制作したというイスラムの投石死刑のビデオが掲載されているなど、これは紛れも無く死刑マニアだと思われるが、この3年ほど更新がないサイトなので、メールを出してみたところで管理人がチェックをするかどうかは微妙な感じではある。

 今回は『Beheaded Art』自体よりもむしろ調査を楽しんだような展開になったが、こうやって複数の人が情報を出し合う共同調査というものもまたいいものである。
 貞子さん、Hazamaさん、ポチョムキンさんのご協力に感謝を申し上げたい。


『Beheaded Art』掲載の写真は本物か?

 議論の過程で貞子さんからこれらが合成写真の可能性もあるとの指摘があり、実際写真そのものの真偽を疑い出せばその検証というものも必要となって来るが、特に写真1は絵葉書に印刷されたもので写真だか絵だか分らない画質である点、そして写真2に関しては非常に不鮮明で劣悪な状態の写真であり、これが「合成ではない」と説明するのは非常に困難である。

 こういう場合に一つの目安となる方法は、ネット上にこれらの同一写真が別なソースでどれだけ存在するかという事と、そしてこれらの写真とは別ルートでプリントされたと見られるものが他にどれだけ存在するか、同一写真で写っている範囲の広いもの、そしてこれらよりも画質の鮮明な写真が存在して、それら全てが全く同内容である場合に、その信憑性は高くなるという、こういう事も根拠の一部とはなる。

 ただし、仮にこれらが合成写真であったとしても、インド兵と清兵と共同で処刑を行っているという時点で日本の長崎で撮影されたという根拠が成立しなくなるので、写真が偽物であった場合もそれがこれらの写真が長崎で撮影された事を肯定する根拠にはならないため、いずれにしてもこちらの主張に関して不利な要素とはならないものである。

写真1


以下ネット上で見つかる同一写真。写真上の説明は中国語からの訳。

 さてこれは相当劣悪な画質であり、これを単独で見たのではこれが合成だかそうでないかを判別するのは不可能。しかし絵葉書と比べると被写体の人物が全く同一。刀を除いて。

 このネットで見つかった写真の方は、刀を振りかざしている日本兵の手の向きに対して刀の角度が不自然であり、絵葉書の方が写真が鮮明で、ネットで見つかった写真は建物の左側の壁や屋根が写っていないなど、一体何がどうなってこの絵葉書と写真の内容に違いが生じているのか全く不明である。
 それから被写体の人物が全員がカメラの方を向いているという非常に写真を意識した不自然な作りになっている。
 ひょっとするとこれはあくまでも撮影用のポーズであって、撮影時に日本刀はそもそも持っていなかったのが、後から手修正された写真にも見える。

 いずれにしても中国のサイトでもこれが義和団の処刑写真と紹介されている。

追記 (2009.9.30):
 コメント欄でぐい呑みさんからの指摘で、この刀を構えている人物が左に鞘をつけ右足を出しているのなら、左右の手のポジションが剣術のルールとは逆であるとの指摘があった。

 確かにその通りであり、これは恐らく左手が右手よりも低い位置にあるとこの人物の顔が腕に隠れてしまうために逆のフォームにさせられたという事ではないかと思われるが、修正の形跡も確認出来る事と合わせれば、これは完全に撮影用に演出された写真という事になる。

写真2


写真2で見つかったのは以下。

 これは色調がもう少し細かく出ている写真で若干は状態は良いものであるが、なんせ解像度的には余り良好でない点では同じなので、これが合成なのかそうでないかは全く判別は出来ない。

 しかし、この画質で見ると、日本兵、死刑立会人、清兵で数人、写真3と同じ人物がいる事が確認出来るため、写真2と3が同じ時に撮影された事が分る。

 ちなみにこの写真は中国語の本から取り込まれたように見えるが、このウェブサイト自体は日清戦争や北清事変を全て日本による大虐殺と言っているただの反日サイトで、写真に付いている文章も「上海の日本軍」という根拠不明の説明が付けられているが、この写真の後方ではインド兵と清兵が列を作り、左側の死刑立会人がやはりチャイナ帽をかぶった清国人であるため、日本軍のみを殊更に目の敵にするために提示する写真ならこれは全く意味がないものである。


シェービングクリームは遠い撃つようにする方法

 いずれにしてもこの反日サイトでもこれを「中国での撮影」と説明しているので、長崎撮影は否定される。

追記 (2009.9.30):
以下着色写真。左右が逆であったため反転処理。サイズは小さいながらもより鮮明な写真。
 「Century China」掲載の写真に修正または合成の痕跡が見られ、まず剣を構えている人物の右手の位置が微妙に違う事、右足の位置が完全に違う事、鞘の位置が完全に違う事、そして目隠しをされている左側の人物の顔の向きが違うなどの点が見られるが、その他が完全に同一であるため、いずれかが修正写真となる。

写真3

この写真は、『中国の世紀』(ジョナサンスペンス著、大月書店)に鮮明な写真が掲載されているとの事。

『中国網』の英語ページに『Beheaded Art』の写真3と同一のものが「北京の安定門の外での日本軍による処刑」と書かれて掲載されている。
『漢唐論壇』より。
写真3でネット上で見つかるものでは、flickrにアップされている写真が見たところ一番色調が鮮明。これは英語表記で「China. Boxer Rebellion」(中国、義和団事件) と説明されているので証拠として使えそうである。
ディテール的にはこれが更に鮮明な写真。

 この写真3は中国サイトで検索しても大量に見つかり、見た限りではその全てで「義和団の処刑」と説明されているので、これが一番根拠が大量に存在するものである。
 それにしてもこれらの中国サイトでは「日本軍部隊が義和団を虐殺」と説明しているが、「日本軍部隊」と言ってもこの写真の被写体9人の人物のうち6人は清国人だという事を一体どう考えているのか、全くこの連中は呆れたものである。

 それから、彼等は「日本軍が義和団を殺戮した」と殊更に騒ぎ立てるが、実際に義和団の掃討作戦を中心になって行ったのはドイツ軍であり、それから日本軍将校による義和団処刑写真はネット上には、中国語と英語サイトで捜したところ写真1-3の3点と、白い軍服を着た日本軍とされる詳細不明の処刑写真の1点しか存在が確認出来ない。

 従って、中国のサイトですらもここまで何も見つからないという事は、これは「清朝の役人が連合軍の将校に義和団捕虜処刑に参加させた事があり、日本軍将校がそこに参加した事があるという、そういう例があった」という以上の何物でもないというレベルの話であると、そういう事だと思われる。

 いずれにしても北清事変とは、アヘン戦争後の清国におけるキリスト教勢力を排除しようとした義和団に包囲された外国人や清国人クリスチャンが北京で籠城状態となった事件であり、八ヶ国軍の派遣は欧米列強が自国民を守るためのものであった。そして最終的に戦況不利になった清朝が連合軍側に寝返ったという、これを「日本の侵略」と定義するのはかなりお門違いであり、この連中は結局のところ中華思想と白人コンプレックスから、欧米列強の進出を許した自国の屈辱の歴史のはけ口をすべて日本に向けているだけの話なのである。

写真4

 一方で写真4のような清朝の執行人による斬首写真はネット上にも大量に存在する。

 これが清国の死刑執行写真であるというのは、『Beheaded Art』に掲載されている以下の連続写真を見れば明らか (クリックで実サイズ表示) である。『Beheaded Art』のURLでは上記の写真はこの連続写真の4番目として整理されている。

 これらは『Beheaded Art』のサイト上で出典も、撮影場所や年代の表記もないために、これらの写真の関連は示されていないが、それが確認出来る要素は、建物が同一である事、フランス兵が同一グループである事、そして死刑執行人が全て同じ人物である等の点である。

 写真1を見ると死刑執行人と共に日本兵が入場している点、写真2と3に写っている清兵が官帽 (縁が折り返され上を向いているもの) をかぶっている点、そして写真3には別な国の兵隊も写っている事から、日本兵とフランス兵は見物していたのではなく、死刑を執行する官憲の清朝側として、連合軍を代表した死刑立会人として同席していたものと見られる。



斬首死体と記念写真を撮る白人。服装から米兵と見られる。清国。(グロ写真のためモザイク処理。クリックで無修正) (Beheaded Art) [F]
 そもそもハーグ陸戦条約が採択されたのが1899年であり、ジュネーブ条約の「俘虜の待遇に関する条約」は1929年、掃討作戦に従事した連合軍兵士が敵の処刑に立ち会うというのは、当時の欧米や日本の軍人の常識で当たり前の話であったのかどうかは分らないが、斬首死体の側で記念写真を撮影する欧米軍兵士の写真などもあり、少なくとも欧米人の目には斬首死体を道路に陳列する当時の清国は東洋の野蛮な国として物珍しく映っていたであろう事は、これらの処刑写真が当時絵葉書として出回っていた事がそれを物語っている。

 また同じ時期の米比戦争 (1899-1913) では米軍が相当数のフィリピン人を殺害しており、ヨーロッパでは人権が言われ公開処刑が廃止になっていた時代に、一方では非白人に対しては彼等の人権意識の全く範疇外だった人種蔑視の時代のこういう写真などを見ると、当時の日本が欧米側として八ヶ国連合軍に参加したのも、この時代に世界における日本の地位の向上を画策したものであるとそのように思える。

 いずれにしても、「フランス兵(?)と日本兵が見守る中、最初の罪人が斬首される」という表記に間違いはないので、これは除外となる。



日本の斬首写真

あともう一つの問題は、『Beheaded Art』のトップ文に書かれた以下の文。
中国や日本の斬首 (馘首) はしばしば外国人によって撮影され、このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている。

 日本の斬首がしばしば外国人によって撮影されたのかといえば、数は少ないにせよ日本の晒し首や磔の写真は存在はする。

 公開斬首処刑写真と言えば中国で撮影されたものが圧倒的に多いのは、その撮影年代が1890年代後半から1920年代くらいにかけてのものであり、乾板やロールフイルム方式という撮影の手軽さが飛躍的に向上し携帯用カメラが普及した時代に至っても中国では公開斬首処刑が普通に行われ、当時欧米列強が中国に進出していたために外国人が多数在住していたという背景がある。

 それに対して日本の処刑写真が非常に希少であるのは、幕末10年前の1858年までは日本は鎖国されていて、明治初期には公開処刑は禁止されたため、撮影可能だった年代が非常に限られており、また時代的に古く、1860年代当時の湿式コロジオン法という露光時間数秒〜10数秒を必要とし準備に手間のかかる撮影法ではそうそう手軽に撮影出来る時代ではなかったという背景もあるかと思われる。

 それでも捜せば、幕末から明治初期にかけての重罪人の晒し首や磔、明治初期の士族反乱時の江藤新平の晒し首の写真などを見つける事は出来る。(クリック注意)

 しかし日本の場合は、中国のように黒山の人だかりの群衆の前での斬首刑のような写真はなく、存在するのは晒し首や磔の写真ばかりという、この辺りの違いは恐らく時代的な古さから動きの速い被写体の撮影が不可能だった技術的問題なのか、処刑そのものは公開されてなく撮影が許可されていなかった等の事情と思われる。

 従って『Beheaded Art』トップ文の「日本の斬首が外国人によって撮影された」の記述は間違いとはならないが、もともと「日本」と表記されていたのは106点の写真うちのたった2点のみであり、実際は日本の写真が一枚も展示されていなかったこのサイトに「このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている」との説明は不適切という事になる。





支那事変関連エントリー:
・歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
・清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
・南京事件考 (2007.8.7)
・東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
・英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
・中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
・上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (2007.11.4)
・日本人捕虜の残虐処刑写真に関する中国人の議論 (2007.11.9)
・猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
・通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)

写真:
  1. ^ 「清代官帽」. 中国少数民族---吉祥満族. 『特色服飾』. 中国網.
  2. ^ "Qing Bannerman armed with Matchlock Musket" Seven Stars Trading Co. "Historical Illustrations of the Qing Military".
  3. ^ 「広西辺境的清兵」. 昨日重現. 『清末舊軍及換裝前的新軍-清末,軍隊,新軍』, 2007-3-16.
  4. ^ 『「壬申(明治4年)三月」の高札の年次が読めるが、これは神奈川裁判所が管内で起こった薬物を用いた殺人事件の犯人を晒首の情景である。この1枚は1876(明治6)年にスティルフリードが刊行したアルバムのなかに収載されている。』 (幕末・明治日本古写真メタデータ・データベース. 『晒首(1)』. 長崎大学附属図書館)
  5. ^. We Were There. "No.2 Company, Bombay Sappers and Miners, China 1900". (Courtesy of: National Army Museum 5211-39-31 (23663) ), Ministry of Defence (UK); Wikimedia. File:No.2 Company, Bombay Sappers and Miners, China 1900.jpg", 16:33, 11 December 2008.
  6. ^. Beheaded Art. "Decapitation (21).".

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