2012年4月30日月曜日




※訳者注:開発陣は、プレイヤーの質問に、明確に否定で答えることはしないのが普通です。質問するからには、プレイヤーが関心がある内容であり、プレイヤーの関心を否定するわけにはいかないからです。しかし、実際は否定的な内容であることが多々あります。
たとえば、最初の「派閥の変更」についてですが、これは変更の可能性はほとんどないと言えます。次の「アイテムスタック」の問題も、可能性はほとんどゼロです。他の項目も同様のものがたくさんあります。
以上の点にご注意下さい。

Brekkee - こんばんは、Stratics House of Commons チャットにようこそ。今晩の私たちのゲストは、Ultima Online の開発者のみなさんです! 今晩の話題は「一般討論」です。この話題に関連したことだけ、答えられます。
Brekkee - 質問は[QT]Eldorian か [QT]zigzag に送って下さい。そうするためには、/query NICK とタイプして、ポップアップするウィンドウの中に質問をタイプします。私や開発者に直接質問を送っても、回答待ちの順番に入りませんよ。チャットの全記録は、チャットが終わって間もなく Stratics House of Commons に掲載されます。
Brekkee - まず、開発者たちの簡単な自己紹介から始めましょう。もう、質問を送って下さって構いません。
Wilki_EA - やあ、みんな、私は Wilki だ。UO のコミュニティ・コーディネーターだよ。今晩は来てくれてどうもありがとう!
PurpleTurtle - みんな、ハロー
Serado - やあ、みんな、Serado はここにいるよ
Ando - ハロー、QA チームの Ando だよ
PurpleTurtle - 私はカメを2匹持っているのよ
Niobe - やあ、みんな、デザイナーの Niobe よ
Draconi - ハイ! Draconi だよ。UO のもう一人のデザイナーだ。みんなに会えてうれしいね!
JIB - こんにちは、僕は JIB でエンジニアだ。うわっと・・・
PurpleTurtle - 私は UO の開発者よ、ここでみんなに会えてうれしいわ
Serado - 僕は Ando と同じ QA チームだ

派閥の変更について
Brekkee - *Creed* 僕の質問は、近い将来派閥に何らかの変更はあるかな? もしあるなら、何かヒントはもらえる?
Wilki_EA - 我々は、派閥を再び活性化する変更について最近話し合ったばかりだ。しかし、目下のところ、決まったプランはないね。今は PvP の問題と、もう少ししたら皆さんにも知らせることができるいくつかのプロジェクトに集中しなくちゃいけない。派閥の問題に取り組むとしたらその後になるだろう。しかし、それに取り組めるかどうか、取り組めるとしたらいつになるか、ということについては、確かなことは言えない。

2012年4月28日土曜日


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2012年4月27日金曜日


ロシア連邦
Российская Федерация
国の標語: なし
国歌: ロシア連邦国歌
  1. ^ 連邦構成主体の各共和国は連邦公用語(ロシア語)とは別に、自らの公用語を定めうることが憲法で認められている。
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])

ロシア連邦(ロシアれんぽう、ロシア語: Российская Федерация)、またはロシアРоссия)は、ユーラシア大陸北部に位置する大統領制の共和制国家。東ヨーロッパに分類され、ロシア人が国民の多数を占める。首都はモスクワ。

世界最大の面積をもつ国土はヨーロッパとアジアにまたがり、北西から順にグリーンランド(デンマーク自治領)、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、ベラルーシ、リトアニア、ポーランド(リトアニア、ポーランドとの国境はバルト海とリトアニアに囲まれた飛び地領であるカリーニングラード州である)、ウクライナ、グルジア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中国、モンゴル、北朝鮮、日本、アメリカ、カナダと陸上または海上で国境を接し、北は北極海、東は太平洋に囲まれている。

なお、右図に示すロシアの領土(実効支配地域)は概ね国際的に承認されているが、日本政府は北方領土の領有権を主張し、それ以外の千島列島および南樺太は帰属未定としている。

正式名称はРоссийская Федерация(ラテン文字転写: Rossíjskaja Federácijaラスィーイスカヤ・フィヂラーツィヤ、IPA: [rɐˈsʲijskəjə fʲɪdʲɪˈratsɨjə]  発音ヘルプ / リンク)、またはРоссияRossíjaラスィーヤ[rɐˈsʲijə]  発音ヘルプ / リンク)。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている[1]。略称はРФ (RF)。

キリル文字のラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここにあげたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。

日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは,原則として「ア」と書く。」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる[2]。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は[3]。江戸時代にはオロシャをろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」及びモンゴル語のОрос(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議をうけた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると露(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更をあえて受け入れたことに当時の対ロシア観があらわれているとする見方もある[4]

ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、"ルーシの遺産の争い"をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。

ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語[5]はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」[6]現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」[7]と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」[8]という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家として独立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたこと等)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統� ��を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された[9]。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった[10]

[編集] 古代・中世

現在のロシア人は様々な民族の混血によって成立しているのでその起源をひとつに絞ることはできないが、国家や文化、言語の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していた。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン系の民族と隣接しており、言語や文化、習慣において大きな影響を受けた[11]。やがてその多くは同化し[12]、ほかの地域の東スラヴ人とは異なる独自の文化を築いていった。

北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている、民族系統不明の人々「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した[13]。後代に書かれた原初年代記[14]には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった[要出典]。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。

数多くいるルーシ諸公のひとりに過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られており、侮蔑を込めて「モスコーヴィヤ」(モスクワ地方)と呼ばれていた[要出典]。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威をないがしろにし、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはこともあろうにポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領するという売国行為に及んだのである。いっぽう、ツァーリ派の貴族や商人� ��ちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増していった。そしてついに1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮のもと、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日までにこれを一人残らず玉砕に追い込むことに成功、モスクワを解放したのであった。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の完全なる大勝利は、現在でも国民の祝日となって� ��るのである(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。

2012年4月25日水曜日


of or related to an amphitheater

円形競技場の、または、円形競技場に関する - 日本語WordNet

an entrance to an amphitheater or stadium

円形演技場やスタジアムへの入口 - 日本語WordNet

2012年4月24日火曜日


fuji_mikasaさん

ご質問は「史実の二回の攻撃に加えて、第三次攻撃を行っていたら」ということですね。
結論として、そのような攻撃は機動部隊そのものを危険に曝す結果になるので、史実の通りに「行わないのが正しい」と判定します。

残念ながら、南雲機動部隊の戦力で「工廠設備や燃料タンクの徹底破壊」は不可能です。
燃料タンクへの爆撃は史実でも行われておりますが、大規模な流出や火災は起きていません。重油タンクを完全破壊するのは容易なことではないのです。

そして、史実では奇襲になった第一次攻撃に比べて、第二次攻撃ではアメリカの迎撃体制が整い、熾烈な対空砲火でかなりの飛行機が撃墜され、また被弾して破損しております。アメリカの戦闘機も結構生き残っており、それによる被害も出ています。第� ��次攻撃で、かなりの米軍飛行機を地上で撃破しましたが、ハワイに配備されていた米軍戦闘機は半端な数ではなく、とても破壊し尽くせるものではありませんでした。
さらに、第二次攻撃隊が帰還した時には天候の悪化によって収容が難しくなっており、かなりの数の飛行機が着艦時に破損して飛べなくなったようです。

2012年4月22日日曜日


バレンシア (イベント・祭り)の旅行記 23

  • そういえば スペインby どこかへさん

    • エリア: バレンシア旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2011/12/21 - 2011/12/21(約4ヶ月前)投票数: 4

    200? 3/18 そういえば、バレンシア 過去の出来事 もう一度、youtubeで再生 もっと見る(写真3枚)

  • ぶらり気ままなスペイン 〜その6 バレンシアの火祭り"Fallas2011" (昼の部)〜by kawarinさん

    • エリア: バレンシア旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2011/03/19 - 2011/03/19(約1年前)投票数: 8

    良くも悪くも、 この旅行最大の思い出となったバレンシアのファジャス。 異国の夜の祭りという事と利便性で ツアーに参加させていただきました。 結果、バス発車の遅れで迷惑をおかけした同ツアー参加の皆様、 トラブルに的確に対処してくださり、 予定通りのバスをバルセロナに到着させていただいた 優秀にして偉大な現地ツアースタッフの皆様、 お詫びを申し上げるとともに、 本当に、本当にありがとうございました。 もっと見る(写真34枚)

  • ぶらり気ままなスペイン 〜その6 バレンシアの火祭り"Fallas 2011"(夜の部)〜by kawarinさん

    • エリア: バレンシア旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2011/03/19 - 2011/03/19(約1年前)投票数: 5

    いよいよ祭りのクライマックス。 次々とFallasが燃やされていきます。 大音響の花火と信じられないほどの大混雑。 外国人風の女軍団に揉みくちゃにされ、 定刻にバスに戻るのが難しくなりました。 行く予定をたてている方、 くれぐれもスリにはご用心! もっと見る(写真17枚)

  • Tomatina 2010by nurikoさん

    • エリア: バレンシア同行者: 友人旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2010/08/22 - 2010/08/30(約2年前)投票数: 7

    夏休みにスペイン留学中の友人に会いに行こうと、ガイドブックを何となく見ていたら偶然にも「トマト祭り」が旅行期間に重なり、「行きたい!!!」ということで参加しちゃいました! 世界の果てまでイッテQとか来ればいいのに〜なんて言っていたら、帰国後にやっぱり撮影に来ていたことを知りました。 お祭り男に会いたかった〜(笑) もっと見る(写真9枚)

  • 火祭りby ふーこさん

    • エリア: バレンシア同行者: 家族旅行旅行テーマ: イベント・祭り
    • 旅行時期: 2009/03/13 - 2009/03/21(約3年前)投票数: 3

    スペイン3大祭りのひとつ、バレンシアの火祭りを堪能しました♪ ファヤ見学以外にも、市街地も周りました。 もっと見る(写真8枚)

2012年4月21日土曜日


 A: the Stars and Stripes
アメリカ独立当初の13州と、現在の全50州を表している。

アメリカ国旗(the Flag of the United States of America)の通称は、the Stars and Stripes(星条旗)が最もよく使われます。そのほかに、the Star-Spangled Bannerなどとも呼ばれます。

2012年4月19日木曜日


なぜイスラムは近代とヨーロッパに反発するのか

 

なぜイスラムは近代とヨーロッパに反発するのか

 

講師 一橋大大学院教授

加藤 博 

平成17年9月13日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 



◆内容目次

はじめに

基調講演を始めるにあたって

第1章 イスラムをめぐるイデオロギー事情

(1)21世紀におけるイスラム

イスラム教徒の人口推移

イスラムの世界におけるアジアのウエイト

世界の人口の4分の1がイスラム教徒

キリスト教とイスラムの世界的な対峙

「文明の衝突」

「文明の衝突」への反論

イスラムへの高い評価

(2) イスラムと原理主義

世界新秩序とイスラム

チョムスキーのアメリカ文明批判

ユダヤ教、キリスト教、イスラムと続く一神教

原理主義を理解していない日本人

原理主義が浸透するアメリカとヨーロッパ

原理主義の定義

(3) イスラムと報道

歴史の中のイスラム世界

イスラム王朝が支配するユーラシア大陸

島国でイスラムと離れていた日本

オリエンタリズム

サイードのイスラム報道批判

イラク戦争における報道合戦

日本人独自のイスラム観が必要

(4) なぜイスラムは近代とヨーロッパに反発するのか ― トラウマとしての「近代」

イスラム教徒のトラウマ

第2章 イスラムとグローバリズム

(1) 新しい冷戦の時代?

祭政一致と政教分離

(2) イスラムと近代化

世界政治からみたイスラム世界

80年前のイスラム教徒の屈辱と恥辱

人工国家のイラク

原理主義と近代主義

近代化と西欧化

近代化を拒否する原理主義

(3) イスラムとグローバル化

イスラム主義

フランクフルト学派のイスラム主義解釈

アンチグローバリズム

時代が要請するイスラムの柔軟性

(4) 原風景としての「近代」

質疑応答

講師略歴


はじめに

 いまご紹介にあずかりました加藤です。始める前に一言私的なことを申し上げます。私の学生時代のことを思い出すと、一橋大学関係の行事でイスラムを取り上げる機会が作られ、私が基調講演と総括を行うようなことは考えられませんでしたので、非常に感慨深く思っています。私の先生はインド経済史の深沢宏先生でして、先生はこよなくインドを愛され、亡くなられたときにはインドの新聞にも訃報が載るぐらいの先生でした。54歳の若さで亡くなられました。

 その深沢先生の先生が村松祐次先生で、これまた学長代行までされた世界的に有名な中国経済の先生でした。このお二人は、今もって我々の世代においても、中国研究やインド研究においてはその名前が必ず出てくる大先生です。しかし、大先生が必ずしも自分の専門分野の弟子を持つことにはならないのが世の常のようで、村松先生のお弟子さんはインド史の深沢宏先生であり、深沢宏先生の弟子が私で、西アジアです。そのように、どんどん専門が西のほうに移っています。地球は丸いので、そのうち東のほうに戻ってくるのではないかと冗談半分に思っています。

 私が学部の学生の頃には、一橋大学には立派な経済史・経済事情を専攻する先生が大勢おられましたけれども、中東についての先生はおられませんでした。アラビア語など中東の言語講座は設けられておらず、全部独学でやらなければいけない状態でした。ただ私が一橋大学にいて幸せだなと思ったのは、その当時の村松先生や深沢先生はもちろんですけれども、その他のヨーロッパ史の先生たちもこぞって、「これからは中東、特にイスラムという宗教は決定的に重要な意味を持つようになる」という認識を持っておられたことです。そのため「中東やイスラムを専攻する研究者が一橋の中にいてほしい」と仰っておられました。

 私がその期待に応えられているかどうかはともかくとして、一橋大学は非常に世帯の小さな、共同体的な大学です。教員の人数が限られているため、専門分野の異なる多くの教員がいるわけではありません。しかし、それぞれの先生の専攻は中国や、インドや、東南アジアや、ヨーロッパであっても、問題関心を広く持って、自分の専攻する地域や国以外の世界で生じている事件に興味を持っておられました。そのため、当時の一橋大学には、「日本で最も足りない研究領域の一つがイスラム世界研究である」ということをよく理解されていた偉い先生が多くいたのです。このことが、私のような人間が曲がりなりにも、ここまで来られた最大の理由だと思っています。その一橋大学のOB会の如水会が、このようにイスラムを正面か� ��取り上げる講演会を企画してくれたということは、私にとってありがたく、名誉なことだと思っております。

基調講演を始めるにあたって

 さて、今日は基調講演ということですが、このフォーラムで講演をなさる先生方は、何を基調にすればいいのかよく分からないほど、専門も問題関心も、分析視角も、多様です。これらの先生方は、アカデミズム、外交、民間の企業と、働く場は違えども、イスラムやイスラム世界について一家言を持っておられます。おそらく、これほど充実したラインナップはそうないのではないかと思われます。

 イスラムは時間的にも空間的にも非常に多様に展開しており、同じイスラムといっても地域によって、あるいは領域によって様々な形をとっています。したがって、それぞれ一流の話ではあれ、先生方の講演において、多くの相反する意見に出くわすであろうと想像されます。そこで、この一連の講義が役に立つか否かは、聴き手の皆様がどれだけそうした違った形での発言を吸収し、自分なりにイスラム問題の核心をまとめ上げていけるかという、皆様の理解能力にかかっているのではないかという気がします(笑)。

 というわけですから、是非とも勉強をしてください。先生方は様々な地域、領域について、これから講義をなされます。今日、私は、最近イスラムについて私的に考えていることを話させていただくわけですが、少々理屈っぽい話になると思います。学者風の話となって、分かりづらいこともあろうかと思います。この点は、次回以降の先生たち講義で補ったり、敷衍したりしていただきたいと思っています。

 以上、長い前置きになりましたけれども、資料に基づいて、私の話を進めたいと思います。今日お配りした資料は、8月24日にエジプトへ調査旅行に発つ直前に、あわてふためいて事務のほうにメールで送ったものです。帰国したのが一昨日、9月11日でして、もう少し整理した形でお話ができるかと思っていたのですが、結局はあまり整理できないまま、先に旅立つ前に準備した資料に基づいて話を進めていくことにします。


第1章 イスラムをめぐるイデオロギー事情

(1) 21世紀におけるイスラム

イスラム教徒の人口推移

 お配りした資料(スライド)は少し見づらいかもしれませんが、この2つの統計資料から、私の話を始めようと思います。これは21世紀の人口動態に関して、世界の現実の一端を示す統計です。左側の表は、2000年現在と20年後の2025年における世界人口に占めるイスラム教徒の数を示しています。2000年時点で、世界のイスラム教徒数は約13億で、世界の総人口の約21%と推計されています。しかし、それから25年後、21世紀も四半世紀を過ぎた2025年には、イスラム教徒数は約20億で、世界の総人口の約25%になると予想されています。つまり世界の人口の4人に1人がイスラム教徒になるという勘定になります。これは私の友人の人口統計学者が推計したもので、現在の� ��口増加率を基準にしてシミュレートした数値です。

イスラムの世界におけるアジアのウエイト

 この統計資料からだけでも、いろいろなことが分かります。その1つが、世界におけるイスラム教徒の分布です。この表にある、南部中央アジアという言い方は非常に曖昧で、インド世界の南部アジアと中央アジア世界とはハッキリ分けて人口統計をとったほうがいいと思いますが、ともかく、この南部中央アジアに、イスラム教徒人口の40.2%が住んでいる。ついで、イスラム教徒人口の16.2%が東南アジアに住んでいます。

 このことから分かるように、イスラムの世界の人口分布に関して留意すべきことは、イスラムというとすぐに中東やアラブと考えられますが、多くのイスラム教徒が住んでいるのは、既に現在においても、南アジアや東南アジアだということです。したがって、現在まではイスラム研究というとアラブ研究が主流でしたが、恐らく21世紀のイスラム研究の中心はどんどん東に移っていき、インドや東南アジアのイスラムやイスラム教徒に関する研究が大きな意味を占めてくるであろうと思います。

 このアジアへのシフトは、世界政治経済の領域においても同じです。とりわけ、このことは、日本にとって重要な意味を持ちます。労働力の輸入を中心に、日本の社会において、南アジア、東南アジアとの付き合いは今後ますます緊密になっていくからです。その結果、イスラム問題が国内問題としても重要になってくるであろうと、容易に予想されます。

世界の人口の4分の1がイスラム教徒

 もう1つ、この統計資料から読み取れる重要なことは、2025年には世界人口の4分の1がイスラム教徒になるという事実です。そして残りの4人に1人が中国人、インド人ということになります。麻雀のプレーヤーにたとえると、ジャン卓の4つの椅子の3つに座るのは、中国人、インド人、イスラム教徒となります。そして残りの1つの椅子に、日本を含めたその他の人々が座るということになります。これは人口動態から見た21世紀の世界の現実であり、21世紀の世界を考えるとき、まず念頭に置かねばならない事実です。

 次に右側の統計数値ですが、これはキリスト教徒との比較におけるイスラム教徒の数です。2000年現在、キリスト教徒とイスラム教徒が世界の総人口に占める割合は、それぞれ約30%、約19%と推定されています。これに対して、今から20年後の2025年には、キリスト教徒が約25%、イスラム教徒が約30%になると予想されているのです。つまり、キリスト教徒のイスラム教徒に対する数的な優位は、20年後には逆転すると考えられているわけです。

キリスト教とイスラムの世界的な対峙

 この数的な優位の逆転は、日本人にとってはさしたる意味を持ちません。キリスト教が多いとか、イスラム教徒が多いとかいうことは、日本とは直接関係ない対岸の火事のように思えるからです。しかし、欧米の人々にとっては、決してそうではありません。19世紀の近代から今日まで世界をリードしてきたのは、疑いもなく欧米でした。その背景には、彼らの圧倒的な力の優位がありました。それは政治、軍事、経済、文化のすべての領域に及んでいましたが、彼らの自信の源には、自分たちの宗教であるキリスト教が普遍性を持っているという確信と、キリスト教の現実における世界規模での普及があったのです。それがいまやイスラムの拡張の前に脅かされようとしているわけです。

 資料の「文章1」を見てください。

 「21世紀は、ふたつの主要なかつ急激に増大しつつある世界宗教、キリスト教とイスラームの世界的な対峙と、西洋とそれ以外の地域との間の関係を緊張させるグローバリゼーションの威圧によって支配されるであろう」

 これはアメリカのジョージタウン大学教授で、「ムスリム・クリスチャン相互理解センター」の設立委員長ジョン・エスポイズィートの言葉です。このセンターは、イスラム教徒とキリスト教徒との間の相互理解を図ろうという目的で設立されました。彼は現在イスラム問題において最も影響力のある学者の一人です。

 その彼が、21世紀はキリスト教とイスラムの対峙の時代となるだろうと言っているわけです。ここでのキリスト教は、欧米とほとんど同義と考えられます。それゆえに、彼は、「21世紀は西洋とそれ以外の地域との間の緊張関係に支配される時代でもある」と述べています。彼は「ムスリム・クリスチャン相互理解センター」の設立委員長であったことが示すように、西洋とイスラムとの対立を強調するような「文明の衝突」論者ではありません。

「文明の衝突」

 この「文明の衝突」という議論は、ここにおられる方はほとんどご存じだと思いますので説明する必要もないでしょうが、アメリカのハーバード大学の政治学教授サミエル・ハンティントンが提起した議論で、その骨子は次のようなものでした。

 冷戦後の世界では、自由主義とか社会主義とかのイデオロギーではなく、宗教を核とした文明の帰属意識、難しい言葉で言えばアイデンティティによって統合や分裂のパターンがつくられつつある。世界に普遍的な文明が生まれるというのは楽天的な幻想であり、西洋のリベラルな民主主義を普遍的なものと思うのは西洋の考え方にしか過ぎない。他の文明圏から見れば、それは文化帝国主義、つまり西洋の考えの押しつけと見られる。とりわけ東アジアの経済成長とイスラム世界の人口急増によって、中国文明とイスラム文明の勢力が拡大し、儒教・イスラムコネクションも予想される。

2012年4月18日水曜日



 この辺のメンバーを集めたら、とにかく試合をこなしてレベルを上げていく。そのうえで、他チームの強い選手の中から契約解除者が出たら、すかさずスカウトしに行き、弱い選手と入れ換えしていこう。こうしてチームの底を上げていくのだ。

2012年4月16日月曜日


 

第5章 戦略本質主義の陥穽と戦略/戦術

 

1.「伝統の発明」から「文化の客体化」へ

 すでに触れたように、「伝統の発明」という言いかたは、1983年に刊行されたエリック・ホブズボウムとテレンス・レンジャーが編集した、イギリスの歴史家たちによる論集の題名『伝統の発明 The Invention of Tradition』(日本語訳の題名は『創られた伝統』)に由来している。ホブズボウムらは、19世紀以降(つまりナショナリズムの成立以降)に、儀礼や文化などの伝統が発明されるという現象が爆発的に起きていることに注目した。そして、その論集のなかのトレヴァー=ローパーの論文のように、スコットランドの伝統文化の象徴となっているタータン・チェックのキルト(スカート状の民族衣装)やバグパイプは、近代になってイングランドとの伝統の違いを強調するスコットランド・ナショナリズムによって捏造された伝統であるといった事実を暴き出したのである。

 ホブズボウムは、『伝統の発明』の序論において、近代のナショナリズムと結びついた「発明された伝統」と、いわゆる「伝統」社会における慣習(custom)とを区別し、慣習を「本物の伝統 genuine tradition」あるいは「生きた伝統」と呼びながら、「伝統の発明」と慣習のもつ強靭さや融通性とを混同してはならないと述べている。慣習は先例と調和していることを要求されるために実質的な限界が課せられてはいるが、革新や変化を許容するのであり、慣習の役割は、望まれる変化や逆に望まない革新に対する抵抗に対し、先例との連続性という表現を与える表明を与えることにある。ホブズボウムは、そのような例として、農民たちが「慣習」によってある共有地が村のものだと主張する場合、その多くは歴史的事実というより、王侯貴族や他の村に対する絶え間ない闘争におけるバランスとして表明されているという事例や、英国の労働者が労働運動において昔からの「商慣習」であるとして労働者の権利を守ろうとする場合、そ� ��は実際には昔からの伝統ではなく、最近になって労働者が実践のなかで定着させ、拡張したものであるという事例を挙げている。これらは、「伝統の発明」ではなく、融通性のある「慣習」、「本物の伝統」の例として挙げられているのである。

ホブズボウムらの「伝統の発明」論に対して、ニコラス・トーマスやマーガレット・ジョリー、ジョスリン・リネキンといったポストモダニズム的な構築主義にたつ人類学者たちは、ホブズボウムによる「発明された伝統」と「生きた本物の伝統」との区別を本質主義的なものだと批判している。たとえば、トーマスとジョリーはつぎのようにいっている。「ホブズボウムが行なっているように、無意識の文化的継承としての慣習を、現在のなかで意識的に過去を布告することとしての伝統から区別することができるのだろうか。ホブズボウムの見解においては、一方に、『未開の部族』や農村といった、慣習が優越している自然共同体があり、他方、民族や国家のような人為的な共同体のために伝統が意識的に創造さ� ��るということになる」[Jolly and Thomas 1992: 241]。また、太田好信氏も、おなじように、「ホブズボウム(……)は、『創りだされた伝統』と『旧来の伝統』を区別していることからも、前者には『真正さ』は欠けていると考えている。けれども、ここでは、彼の立場とは異なり、いかなる文化(ホブズボウムのいう『伝統』)も意識的な語りという客体化の過程をへて初めて他者にたいして可視的になるという認識から、ホブズボウムの主張する区別をここでは設けない」[太田 1998:254注(9)]と述べている。

 しかし、これらの批判は、ホブズボウムによる「発明された伝統」と「生きた伝統」の区別に当てはまらない。そもそも「本物の伝統」としての慣習は、「差異の連続体」ないし「差異の連鎖」として存在するものとされている。農民たちがある共有地を慣習に照らして村のものだと主張するとき、それは歴史的事実というよりも王侯貴族や他の村にたいする主張として提示されたものだとされていたように、ホブズボウムのいう「生きた伝統」あるいは「本物の伝統」は、他の地域や集団とのさまざまな交渉や相互関係によって変化する融通性のあるものとされているからである。それは、反本質主義者が本質主義として批判する文化のとらえかたとしているような、固定化された「不変の本質」とはずいぶん異な� ��ている。それは、ホブズボウムが近代の英国における労働運動の事例を例として挙げているように、「慣習が優越している自然共同体」において継承されたものでもないし、王侯貴族や他の村といった他者にたいする語りのなかではじめて可視化されるように、まったく客体化の過程をへていない実体としてとらえられているわけでもない。「客体化」という用語をつかうならば、ホブズボウムによる「真正さ」の区別は、客体化のモードのちがいなのである。

ホブズボウムの区別は、境界のあいまいな「差異の連続体」としてある「慣習」と、境界を固定されてその内部を同質化し、外部とはその違いを重複や曖昧さを排除して明確にすることによって「発明された伝統」とのあいだの区別であり、ギアーツによるネイションと原初的紐帯との区別に重なるものと言えるだろう。さらに、ホブズボウムが、生きた伝統と呼ぶ「慣習」の例として、農民たちの王侯貴族に対する闘争や、英国の労働者による労働運動を挙げていることからもわかるように、「発明された伝統」と「慣習」との区別は、エリート文化と民衆文化の区別とほとんど一致している。ただし、このエリート文化と民衆文化の区別は実体として区別されるわけではない。後で述べるように、それは「やりかた� ��の違いとして区別されるということである。ポストモダン人類学は、それらの区別をまとめて本質主義的だと批判しているわけだが、そのような区別、たとえば伝統の発明と慣習の融通性との区別を、真偽の区別としてのみとらえて退けてしまったとき、人類学は人類学にとって重要な区別を放棄したのだということが、本書で明らかにしたいことの一つであった。

ところで、発明された伝統というものがどういうものであるかを理解するには、現在ではよく使われるこの「伝統の発明」という表現が矛盾した言い方であることに注意することが重要である。この用語を使っている研究者たちもあまり意識していないようだが、この語法はレトリックでいう矛盾語法である。「伝統」といえば、昔からのやりかたを受け継ぐことである。それに対して、「発明」とは、今までなかった新しいものを創りだすことを意味する。とすれば、後になってから伝統になることはあっても、あるものごとをいきなり「伝統」として発明することなどありえないはずである。「伝統の発明」がこの矛盾をどのようにごまかしてそのような不可能なことを実現させているのか、これが「伝統の発明」� ��いうことを理解する鍵となる。

 では、捏造された伝統が人びとに自分たちの「伝統」として受けいれられるということが、どうして起こるのだろうか。それが可能となるには、人びとが上の世代から継承しているはずの伝統を知らないということが前提となるはずだが、そんなことがどうして起こりうるのだろうか。そして、なぜ近代になって、このような奇妙なことが可能となったのだろうか。

 ホブズボウムは慣習(カスタム)を「本物の伝統」としていたが、昔からやっているという理由で続けられると同時に、生活の便宜のためには変更されてしまうという融通性のある慣習は、たいてい守るべき「伝統」などとは意識されずに継承されたり変更されたりするものだろう。それが自分たちの「伝統」として意識されるには、他者との違いを自覚したうえで、その違いを徴づけるものとして、あるものごとを認識するという状況が必要となる。つまり、特定のものごとを自分たちの「伝統」と認識するということは、すでに他者との違いを自覚した意識的な行為であり、それを意識させる状況が近代になって生まれたのだということがいえるだろう。

しかし、それだけでは、新しく創りだされたものを自分たちの伝統として受けいれるということが起こる条件にはならない。自分たちの伝統というときの「自分たち」という共同体が、顔を合わせたり聞き及んだりする可能性のある範囲内のものであれば、だれかが新しい儀礼のやりかたやものごとを創りだして、それを「われわれの伝統だ」と主張しても、人びとにとってそれはいままで見たことも聞いたこともない「新しいもの」でしかなく、昔から続いている「伝統」として受けいれることはないだろう。いままで見たことも聞いたこともないものが、「自分たち」の伝統として受けいれられるには、その「自分たち」という共同体が、目で見たり耳で聞いたりする可能性の範囲を越えていること、いいかえれば� ��接的な関係の連鎖で作られる差異の連続体を超えていること、にもかかわらず、その具体的な関係性を超えた、その抽象的な空間が「自分たちの共同体」として明確に境界づけられていることが条件となる。そのような「想像の共同体」こそ、近代に創りだされたネイションだった。

 いいかえれば、〈顔〉のみえる関係性の連鎖のなかで見聞きする直接的な経験の範囲を越えた「自分たちの共同体」が「ネイション」として創られ、しかもそれが個別的で直接的な関係を媒介とせず、いきなり全体として現われる共同体になったとき、はじめて「伝統の発明」ということが可能となるのである。そのような「想像の共同体」がいったん成立すれば、自分たちの村や隣村、あるいは結婚などで移住してきた人たちが実際に行ったり見聞きしたりしていた慣習とは異なるやりかたが「日本」の正しい伝統だと教育やマスメディアによって教えられることで、自分たちが行ない見聞きしてきた慣習もそれとは少し違っている隣村の慣習も、実はネイションとしての「日本の伝統」とは違ったものだった――� ��まり、俺たちのやっていたことがおかしかったのだ――という認識が生まれてこよう。実際に慣習を正しい日本の伝統に直すということは、明治以降、日本各地の地域社会でなされたことだった。ようするに、ローカルな生活世界の「生きた伝統」(慣習)を発明することは不可能であるが(発明することが不可能な伝統をホブズボウムは「本物の伝統」と呼んだのであって、固定された不変のものをそう呼んだのではなかった)、ネイションという「想像の共同体」の伝統であれば、それまでだれも見たことも聞いたことがないものであっても、いきなり「伝統」として創りだすことができるし、それが「伝統」として通用しうるというわけである。ローカルな共同体で「発明された伝統」が受けいれられていく条件とは、そのローカ� �な共同体がすでに近代のネイションとその装置(地方の政府機関や学校やマスメディア)に包摂されているということなのである。

 こうして、「伝統の発明」などという、矛盾した不可思議なことがなぜ起こりうるのかという謎に答えをだすことができた。そして、それは、ネイションという想像の共同体における想像のスタイルと、それ以前の想像の共同体における想像のスタイルとの違いによって可能となるものであった。この想像のスタイルの違いは、ホブズボウムの「本物の伝統」としての慣習と「発明された伝統」の区別だけではなく、ギアーツのいう「原初的紐帯」とその受け皿にはなりえない「ネイション」との区別にもそのまま重なるものである。本書では、その違いを提喩的想像と換喩/隠喩的想像との違いといいかえ、提喩的な想像のスタイルによって生み出される民族や文化がツリー状構造をしているものととらえられてい� ��こと、そして換喩/隠喩的な想像で生み出されるまとまりがセミ・ラティス構造をしていることを指摘した。ポストモダン人類学における反本質主義は、それらの区別を無視するか、あるいはアンダーソンが「共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」と述べていたにもかかわらず、それを真偽の区別と解釈して、本質主義的な認識と一様に退けて、その重要性に気づかないでいたというわけである。

2012年4月13日金曜日


パパのいうことを聞きなさい!』(パパのいうことをききなさい!)は、集英社のスーパーダッシュ文庫よりリリースされた、松智洋のライトノベル。イラストはなかじまゆかが担当。略称は『パパ聞き!』。

2011年より、集英社各誌にて漫画化作品が連載中。また、2012年1月から同年3月までテレビアニメが放送された。

[編集] ストーリー

主人公・瀬川祐太は大学に入学し新生活をスタートさせたばかり。小学生の頃に両親と死に別れ、当時高校生だった姉・祐理に育てられるも、中学生の時にその姉がバツ2で2人の子持ちの男性・小鳥遊信吾と結婚。義兄となった信吾への嫉妬と姉の家庭と幸せを壊したくないという思いから姉夫婦の家庭とは距離を置き一人暮らしをしていた。そんなある日、姉がアパートに突然訪ねてきて半日だけ3人の娘たち(空、美羽、ひな)と共に留守番を頼まれる。渋々頼みを引き受けるが、そこで幸せそうな姉夫婦と子供たちの様子を垣間見、下らない子供染みた嫉妬心で姉家族と距離を置いてきたことを後悔し、今までの不義理を返し姉家族との関係を修復しようと決心する。

その矢先、姉夫婦の乗った飛行機が行方不明となり、姉夫婦は消息不明のまま政府発表では死亡したことになってしまう。残された3人の娘たちは親族会議の末、全員バラバラにされそうになるが、見かねた祐太は全員自分が引き取ると宣言し、自分が住む6畳一間のアパートで4人暮らしをスタートさせる。最初は慣れない家事や狭い部屋で問題ばかり起こったものの、やがて親戚にも認められた4人は、かつて3姉妹が信吾と祐理と暮らしていた元の家で暮らせるようになるのだった。


注意:以降の記述でパパのいうことを聞きなさい!に関する核心部分が明かされています。免責事項もお読みください。

2012年4月12日木曜日



「Can You Feel It」の日本語ヴァージョンを起用したコカコーラのCMが公開中のワン・ナイト・オンリー。バンドは間もなく<MTV VMAJ>で来日し、その後<Summer Sonic 2011>でパフォーマンス予定。2ndアルバム『ワン・ナイト・オンリー』のリリースも控え、一気に日本でブレイクしそうな予感の彼らをロンドンで直撃。フロントマンのジョージ・クレイグがアルバムや日本への想いについて語ってくれた。

──なぜ2作目にしてアルバムにセルフ・タイトルをつけたのですか?

 ジョージ・クレイグ:うん、1stをセルフ・タイトルにするバンドが多いよね? これが自分たちだ、これが俺らのやってることだって。でも、俺らが1st作ったときはまだ若くて、15歳のとき作った曲をバンと出しただけっていうか…、まだ自分たちのサウンドを模索している途中だった。でも2ndで、俺たち成長したし、ずっと作りたいと思っていたものが作れたっていう達成感や満足感があった。こうなりたいって思ってい たバンドになれたし、このアルバムのことを誇りに思っている。全部の曲が気に入っている。これが俺たちだ、これが俺たちのサウンドだって思うことができたんだ。俺らを象徴するものだから、ワン・ナイト・オンリーっていうセルフ・タイトルにしたんだよ。

──いま思い返すと、1stアルバムはどんな作品だったと?

ジョージ:すごく楽観的だったと思う。素で、あんまり深く考えてなかったし、その時々の瞬間をとらえていた。アップビートで楽しい、フレッシュなインディ・ポップの曲ばかりだ。

──今回はそれに比べると?

2012年4月10日火曜日


「羅針盤(磁気コンパス)について」 

  コンパスといえば航海に欠かせない用具のひとつで、現在では、電気で稼動するいわゆるジャイロコンパスが主流となっていますが、磁石による方位測定は時代が進んでも無視できないものです。
 磁気コンパスいわゆる羅針盤と火薬は中国の偉大な発明として知られているところですが、磁気コンパスの発祥の地は、イタリアのナポリ南東に位置するアマルフィとされています。
 現在アマルフィは、港もなくささやかな天然の湾があり、小さな防波堤のなかに数隻の漁船が、停泊しているだけの小さな村ですが、その中心地に、手にした磁気コンパスを見る発明者、フラビオ・ジョイアの銅像があります。
 ところが、フラビオ・ジョイアなる人物が、実在したという確固たる資料がなく、研究者の間でも本当に存在してい� ��のか謎とされているそうです。
 中国で発明されたものが、どうしてイタリアが発祥の地となり、また、コンパスのない時代の航海者はどのように針路をとっていたのか、磁気コンパスが歴史上どのような影響を与えたのかを 次項からお伝えしていきます。

2012年4月9日月曜日


今日は「スピードミントン」を紹介しました。

ご出演は、東京都大田区にあります 

NPO法人地域総合型スポーツ倶楽部ピボットフット理事 今田恵美さんです。

スピードミントンの歴史、概要を教えてください。

2003年にドイツで生まれました。スカッシュをやっていたドイツ人が、

このスピード感を生かしたまま、もっと広いところでやってみたいと

考案したスポーツです。ヨーロッパで広まり、翌年、アメリカに渡りました。

その後、日本に上陸したのは2005年のことです。

その頃には、ヨーロッパ大会も開催され、アメリカでもかなりの

競技人口がありました。日本に上陸したのと時を同じくして、

アジア各国に広まり、ヨーロッパと同じように、

小・中学校の授業に取り入れている国もあります。

日本では4年前(2007年4月)から都立蒲田高校の体験授業で

初めて教育の現場で取り上げられ、スピードミントンを希望した1年生が

週に1回(2時間)の授業を受けています。

また、上陸後すぐにNPO法人ピボットフットが

「スピードミントン教室」を開講し、現在までに30人以上の会員が

競技としてスピードミントンを楽しんでいます。

具体的にコートの広さ、使う用具の特徴などを教えてください。

コートは一辺が5.5mの正方形2つが、

12.8メートル離れて置かれています。ネットはありません。

自分のコートから相手のコートまでスピーダー

(バドミントンのシャトルに似たもの)をノーバウンドで打ち合います。

5.5mのコートを2つずつ並べて行うダブルスもあります。

使用するラケットはスカッシュ用のものと形が似ていますが、

長さが58cmと、小ぶりにできています。

2012年4月8日日曜日


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2012年4月6日金曜日


 当ブログでは支那事変をこれまで何回か扱った事があるが、その関係で中国の公開処刑に関して調べものをしていて、中国の斬首写真ばかりを集めて掲載している『Beheaded Art』というサイトに行き着いた。

 そのサイトのトップの解説文にはいささか捨て置けない事が書かれている。

BEHEADED ART
首のない芸術
BEHEADING

Beheaded Art is about public beheading. View more than 100 pictures and drawings of capital punishment by decapitation at Beheaded Art.

Beheadings in China or Japan (馘首) were often photo graphed by foreigners and this is where most of the execution photos available at Beheaded Art come from.

If you are offended by pictures of blood and death and decapitated (馘首) bodies – you might not enjoy this web site.

打ち首

『Beheaded Art』は公開斬首に関するものである。このサイトでは100点以上の断頭刑の写真と絵を見る事が出来る。

中国や日本の斬首 (馘首) はしばしば外国人によって撮影され、このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている。

もしこれらの写真の血まみれの斬首 (馘首) 死体で気分が悪くなる方はご遠慮頂きたい。

 このサイトには106枚の写真と21枚の絵が掲載されており、その写真の大半が中国や日本の首切り写真であるとの説明だが、見たところそれらは全て携帯用カメラが商品化された19世紀末以降の、清朝末期から辛亥革命 (1911)、そして上海クーデター (1927) 時に中国で撮影されたとみられる写真であり、日本の斬首と見られるものは見当たらない。

 ところがこのうち2点3枚が日本の長崎で撮影されたと説明されており、そしてタイトル (説明文) に「Japanese」の単語を含む写真が以下の4点5枚。


註:本エントリーでは写真の検証のため清朝時代の斬首写真を掲載しているため、好ましくないと感じる方はご遠慮下さい。なお残虐写真に関してはモザイク処理を行っており、全ての写真はクリックで無修正版がオリジナルサイズで見られるように設定している。

『Beheaded Art』のトップページは「full details」と「thumbnails」の二つのモードがページ下部のメニューで切り替えられるようになっており、「full details」の方で説明文が表示されるようになっているが、ブラウザによっては写真を読み込まないケースがあります。その場合は「Full details」専用のURLがあるのでそちらで試してみて下さい。

なお『Beheaded Art』の元サイトは本エントリー掲載の4点より遥かに残虐な写真も掲載されているため、訪問する方はご注意下さい。




 これは絵葉書上に赤文字で書かれているイタリア語では「北京」と書かれているのに、その英訳では「北京」が抜け落ちているためにまるで日本国内での処刑と誤解されるような書き方になっている。
 しかしここに写っているのは刀を持った2名以外はチャイナ帽 (清朝官帽) の清兵や頭にターバンを巻いたインド兵。
 絵葉書上部には中国語でも「北京東洋人殺頭」と書いてあるので、これは漢字の読めないサイト主がイタリア語から訳し忘れたか、意図的に「北京」を取り除いたかのどちらかとなる。

 上記2点が日本の長崎での撮影と説明されているもの。しかしここにも清兵やインド兵が写っている。


 これは撮影場所や時代の記述はなし。『Beheaded Art』にはこの写真と同じ時に撮影されたとみられる連続写真数枚が掲載されており、それらの写真で確認出来るのは群衆と死刑執行人は弁髪やチャイナ帽をかぶった清国人、ヨーロッパ人らしき兵隊が処刑見物をしているのと、建物の窓が中華式の格子窓であるという事。(連続写真に関しては本エントリー後半の写真の検証の項を参照)

諸条件から1900年の北京の北清事変における義和団の処刑写真と見られる

 これだけの条件が揃えば近代大陸史を知っている人ならすぐにピンと来るはずであるが、少なくとも写真1-3は1900年の北清事変 (義和団事件) で義和団鎮圧のために清国に派遣された大英帝国、アメリカ合衆国、帝政ロシア、フランス、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国、大日本帝国からなる八ヶ国連合軍が、8月14日に北京を陥落させた後の義和団掃討作戦における残党処刑の際に撮影された写真であり、写真4は兵士の服装からその年の冬に連合軍占領下の北京で撮影されたものと推定される。

 連合軍による義和団の掃討作戦は1900年9月に集中的に行われ、義和団の残党は連合軍側に寝返った清朝側に処刑をされ、これらの写真のように清国の兵士の立ち会いのもとで連合軍の将校が処刑を行ったケースもあったようである。

2012年4月5日木曜日


「文明化」という言葉は何を意味するのだろうか。これは明白なことだが、高等教育を受け、ネクタイを締め、フォークで食事をとり、週に一度手足の爪を切るだけでは「文明化」されているとは言えない。これらの形式的な作法を習得したからといって、その人々がまるで無教養に振舞うことがなくなるわけではなく、これは万人周知の事実である。「文明化」の本質はむしろ生活様式の相違を超えて他者の人間性を認識、受容することにあり、これは時代と地域を選ばない。

以上に述べたことは自明のようにも思えるが、普遍的に受け入れられているわけではない。また、文明間の対話という考えはおおむね好意的に論じられるが、冷笑の対象となることもしばしばである。たとえば、エリー・バーナビーが最近発表した論文「諸宗教の殺意」(Les religions meutrieres)の結論部分は「諸文明の対話に反して」と題され、彼は「一方に文明があり、もう一方に野蛮がある。この二つの間には対話の可能性などないのだ」と断言している。

2012年4月2日月曜日


【革命家】チェ・ゲバラ
1928年アルゼンチン生まれ。1959年のキューバ革命をカストロと共に成就させる。チェ・ゲバラの「チェ」とは、相手の親しみを込めて呼びかける際のアルゼンチンの言葉である。ゲバラは仲間から「チェ」と呼びかけられることが多く、それがそのまま愛称の一部になった。1967年ボリビア戦線で銃殺される。


キューバ革命の立役者といえば、誰もがチェ・ゲバラとカストロを思い浮かべるだろう。
しかし、この2人、共にキューバ革命を成功に導いた同志でありながら、その後の人生は大きく異なっている。

カストロは現在もキューバの首相として君臨している。彼には「世界一暗殺の危険にさらされている人物」という異名もあるが、そのカリスマ性と強靭な精神力によって、ことごとく危機を跳ね除けているように見える。
それに比べ、チェ・ゲバラは革命後、キューバを去り、1967年、ボリビアの山中で殺害された。

この差はどこにあるのか?
大きな理由の1つとして、「ゲバラはキューバ人ではなかった」ことが挙げられるだろう。

誤解されていることも多いが、ゲバラはアルゼンチン人であり、キューバ人ではない。カストロと共にキューバ革命を成就させたが、それは「祖国のため」の行為ではなかったの� ��。 このことはゲバラの人生に大きな影を落としている。

もし、彼がキューバ人であったなら、革命後はキューバの再建のために、すべての労力を注ぐことができただろう。

2012年4月1日日曜日


 あぁ昔の青年にはやりましたね。私も中学、60年前に出隆読みました。出隆は一回目はよく解らなかったけど。
 何度か読んでる内に、分かった気がしてきた。でも高校に入ってから漸く理解できたみたいでした。