2012年5月31日木曜日


経堂緑岡教会 〜暗闇と光〜

暗闇と光


(1)ファラオに対する侮辱

 いよいよ一連の災いの物語も終わりに近づいてまいりました。本日は、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」と11章の「最後の災い」と題された部分からメッセージを聞いてまいりましょう。
 いなごの災いの後、主はモーセに言われました。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じるほどにしなさい」(21節)。「闇が迫ってくる」という表現がありますが、「手で感じることができるほどの闇」というのは、何かとてもリアルな表現であると思います。神様の言われた通り、モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土は暗闇に包まれました。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできませんでした。昼に日の光がないだけではなく、夜も月の光、星の光すらなかったということでしょう。一方で、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光がありました。
 この暗闇の災いというのは、ファラオに対するこの上ない侮辱でありました。ファラオは、太� �神アモン・レーの化身と考えられていたからです。エジプトの二大神というのがナイル川と太陽であったそうですが、一連の災いは、ナイル川を血に染めるという、ナイル川の威光に対する打撃で始まりました。今やもう一つの神として崇められている太陽に対してなされたというのは、そのようにファラオの威信をあざ笑うものでありました。

2012年5月20日日曜日


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2012年5月18日金曜日


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2012年5月16日水曜日


大久保にある豚肉の焼肉食べ放題店。サムギョプサルと呼ばれる、豚バラ肉を使った焼肉で、韓国の名物料理だ。

ぐるなびでのHPはコチラ。

最寄り駅は大久保もしくは新大久保。駅の北口を出て、大久保通りを西へ1分程歩いて行けばよい。

種類数は全部で10種程。種類数はあまり多くない。豚肉が6種類用意されているのはよいだろう。ただ、実際には、あまり味付けの差はなかった。

ノルマ制になっており、始めにシンプルな豚バラ肉が供される。それを食べ終えてから、他の種類を注文できるといった流れだ。

2012年5月14日月曜日


イースター島(Easter Island)- イスラ・デ・パスクア(Isla de Pascua)

南米大陸から3700km、タヒチから4000km離れた絶海の孤島。現地では現在「ラパヌイ」とも呼ばれ、「世界で一番遠い島」の異名を持つこの島には独自の文明が栄え、世界的に有名な石像建造物「モアイ」をはじめ、未だに解読されていない文字「ロンゴ・ロンゴ」、無数の岩絵を残した「鳥人儀式」等、他では見られない不思議で溢れている。18世紀にヨーロッパ人が「発見」するまでの記録がないため、その殆どは謎に包まれたままでとてもミステリアスな島である。周囲が60km弱と、とても小さな島だが、その中にモアイが約900体もある。その半数近く、約400体が集まるラノ・ララク(Rano Raraku)は必見。モアイの切り出し場として知られ、彫っている途中のものや完成して運び始めたもの等、今もそのままの状態で残されている。

2012年5月12日土曜日


(このテルエル県の略図をクリックすると画像が拡大されます)


(モラ駅周辺)

スペイン内戦の回想録「二十歳の戦争」の著者ミケル・シグアン(Miquel Siguan)氏は、1938年1月に100人ばかりの若い同期の召集兵と共にバルセローナ市近郊の訓練基地を出発し、列車でテルエル戦線に到着した時の印象をこう述べています。

「今朝目が覚めたとき、列車の窓から見た光景にぼくは驚いた。何度も目をこすったぐらいだ。この汽車の旅では、ずいぶん変化に富んだ風景を次々と見てきたが、これまで目にしたのはどれも耕作地であり、人が住んでいる土地だった。ところが、いま目の前に広がっているのは無人の荒野だ。木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である。ただのっぺりした平原が、これまた同じように一木一草も見当たらない裸の丘に囲まれているだけなのだ。」


(モラ駅舎)

「線路脇にかなり痛んだレンガ造りの建物があり、村の姿はどこにも見当たらないものの、残っている標識からそれがモラ村の駅らしい。近くを一本の道路が走っているが、それはまったく人気のない平原を一直線に延び、水平線のかなたに消えている。列車とぼくらだけが、このあたりで唯一の生命のしるしというわけだ。」 ………………………………………………………………………………………………
「人里離れた駅のプラットフォームに一団となって集まったぼくらは、まるでわずかばかりの身の回り品を抱えた移民の群れのようだ。」   (第一章「到着」)

テルエルの戦いから70年が過ぎた今年の春、私は「二十歳の戦争」の舞台となったテルエル県を訪ねてみました。この70年の間に開発が進み植林などが行われたということもあるのでしょうが、現地を見たかぎりではモラ駅周辺はたしかに依然として人気のないさびれた場所ではありますが、「木も草もなければ、人間がいるという気配がまったく感じられない荒野である」という回想録の記述とは少し違うな、という印象でした。
或いはこの部分は、家族にもそして緑あふれる故郷のバルセローナにも別れを告げ、激しい戦いが続く冬のテルエル戦線に着いた時の、当時19歳だった著者の心象風景と理解すべきなのかも知れません。
モラ駅、正確にはモラ・デ・ルビエロス(Mora de Rubielos)駅は、町まで15キロ近くも離れている無人駅で、今でも駅の周りには2-3軒の家があるだけで、一日に何本かの列車が発着する時は別なのでしょうが、ふだんは本当に人影もなく、一匹の犬の姿すら見かけない、まことにさびれた雰囲気でした。


(Mora de Rubielos)

2012年5月11日金曜日


■必然と偶然
 今日は8月14日、終戦記念日。日本と連合国が戦った第二次世界大戦は、60年前のこの日に終わった。例年のごとく、テレビの特番がくまれ、あの戦争の悲惨な映像も放映された。ところが、地球規模の世界戦争であったにもかかわらず、風化はすすみ、かつて日本とアメリカが戦ったことを知らない高校生もいる。

 歴史には2つのタイプがあるように思える。原因と結果がはっきりしている、つまり必然。もう一つは、確率五分五分で、たまたまどちらかに転がった、つまり偶然。後者は歴史としては面白いが、前者を考えると、気が重くなる。逃れようのない「歴史の方程式」を感じるからだ。

 「歴史の方程式」は複数の数式と、多数の変数からなるが、たいてい、変数の方が多いので、そのままでは解けない。つまり、予測不能。それでも、起こってしまえば、全ての変数がわかるので、原因と結果も明らかになる。その時、歴史の因果律が読み取れるわけだ。では、第二次世界大戦は必然か偶然か?

 SFネタにあるように、タイムマシンに乗り込み、1889年4月20日のオーストリアの町ブラウナウに行き、ゆりかごの中のヒトラーを殺害してみたところで、第二次世界大戦は避けられなかっただろう。時間、場所、人物は違っても、似たような歴史がつづられたに違いない。ヒトラー1人に世界大戦の原因をなすりつけるには無理がある。それほど、第二次世界大戦は「必然」だったのである。

2012年5月10日木曜日



日本の資本主義社会の土台を築いたといわれる伊藤博文は、もともと貿易業を営んでいました。それが明治維新直後に、貿易業を三井に任せて自分は政治に専念しています。以後三井との二人三脚ぶりは随所に見られます。

1905年、伊藤博文は、第二次日韓条約を結んで、朝鮮を日本の保護国にしてしまいます。そして自ら統監となって朝鮮の完全支配を始めますが、1909年朝鮮独立運動の義士安重根によってハルピンで射殺されました。

軍備増強と国会議員買収

日本最初の侵略戦争ともいうべき日清戦争前後の時代、資料として面白いというかあきれた資料が残っています。伊藤博文の演説にもあるように、侵略戦争のために軍備増強を達成するためには、増税しなければなりません。その時点の首相は、山県有朋です。山県� ��閣は、国会に増税案を何度も上程するのですが、否決されます。

そこで山県は、反対派の国会議員を買収するために、議員の歳費を一挙に五倍に引き上げた上に、有力議員に直接買収資金を多額与えて、増税案を成立させました。

その買収資金を提供したのは天皇でした。当時のお金で98万円です。今のお金にしたら恐らく100億円以上のお金でしょう。

当時1000円で都心に一軒家が買えた時代ですから。このことが今私たちにわかるのは、このいきさつをみていた西園寺公望の日記が国会図書館に残されていて、その中に書かれていたからです。その中には

「首相の山県は、国会議員買収のため天皇から受け取った資金を、どうも一部自分の懐にいれているようだ」と書いています。現在の自民党幹部と同じですね。

しかし、天皇が何故こんな大金を出したのか、日清戦争で天皇がどれだけ儲けたかを見ればよく分かります。

日本は国家予算をふんだんに使って軍備を大増強して、日清戦争に勝ちました。日本は、清国から賠償を三億五千万円取ります。そのうち二千万円は天皇がもらっています。

当時国家予算が一億そこそこの時代ですから、国家予算の20%に値する金を、天皇は受け取っています。

そして、日清戦争に勝った日本は、台湾を植民地にしてしまいますが、その台湾の最大の産業の製糖業は三井物産が独占的に経営します。

天皇はその台湾製糖の第二位の株主になっています。台湾製糖の株の配当は10年後に12%、20年後には100%になっています。

しかも日清戦争に勝って、清国から国家予算の三倍の巨額の賠償 金を分捕って、これが日本資本主義経済発展の土台を築くことになったといわれています。これだけを見ても、侵略戦争・植民地獲得がいかに資本家にとって儲けにつながるかが分かります。

三井物産と満州事変

ここで一つ三井物産の企業活動と軍部との関係を表す実例をご紹介しておきましょう。

日露戦争後、日本が満州を獲得して、三井物産が大きく業績を発展させた一つの部門は大豆でした。"満州"は、世界的な大豆の産地でした。それを三井物産がほとんど独占的に買い占め、その油からマーガリンを造ってヨーロッパ諸国に輸出し、油粕は国内で肥料として売ることで大いに儲かっていました。

しかし1920年代になると、三井の大豆の取扱高が伸び悩んでいます。この時期の三井物産の支店長会議の議事録� �残っています。それには、「満州の軍閥張作霖が大豆の買い付けに手を出し始めたので困った」という趣旨のことが書かれています。

そのうえ張作霖は、日本が植民地支配の動脈のように利用していた満州鉄道に平行した独自の鉄道を計画して、着工を始めたのです。この鉄道が付設されてしまうと、日本の植民地経営には大きな打撃になります。鉄道工事が始まったその直後、張作霖は、関東軍によって列車ごと爆殺されてしまいました。これが1928年です。その翌1929年度の三井物産の大豆の取引高は倍近くに跳ね上がっています。

このような極端な数字は、ほかの要素も重なってのことかも知れませんが、日本の歴史書には、この張作霖の関東軍による爆殺事件は、只単に関東軍の仕業であるとしか出ていません。その後殺� �れた張作霖の息子、張学良が父親の遺志を継いで事業を始めようとしたとき、1931年、日本軍は満州事変を起こし、次いで中国本土へと戦線を拡大し、1932年には満州国を建国しています。

<中略>
次に経済学者から提供していただいた資料にもとづいて、日本の資本が第一次世界大戦でどれ程の利益をあげたか報告します。

大戦中の武器輸出の総額は二億九千万円。武器の主なもの、銃が93660梃。野砲弾丸410万発。駆逐艦12隻。戦艦2隻。
大戦中の対ヨーロッパ投資総額、約七億七千万円。

【第一次世界大戦と日本の経済発展】
   戦争開始時 戦争終結時

株価
100 246
輸出 5億9100万円 20億9800万円
輸入 5億9500万円 21億7300万円
利潤率 15.2% 57.8%
払込資本 24億5100万円 85億5100万円
三井物産 3.96万円 36.46万円
取扱高 4億5200万円 21億300万円

しかし、戦争をきっかけにして、鰻登りに発展した日本の企業の影で、日露戦争で日露双方合計23万人の人命が失われ、第一次世界大戦では、参戦した国の軍人802万人、民間人664万人の命が奪われたことを、そして日本に支配された台湾、朝鮮、中国の民衆に筆舌に尽くし難い苦難の歴史を忘れてはならないと思います。

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昭和天皇が2・26事件を起こさせた(?)本当の理由

ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。

2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。

 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

それは昭和天皇が、立憲君主では なく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。
 
2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。

昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。

そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。

 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。

本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。

1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。

また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。

驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。

塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。

記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。

「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」

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昭和天皇が日中戦争を起こした目的

【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク

北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。

ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中� �へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。

1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。

麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を� �やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。

日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕とな� �日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。� ��菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。

南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。

阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗 昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。

内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。

日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。
『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。

自民党「大物」政治家の資金源

 「小泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた大政翼賛会の政治家であり、安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である」という家系の意味するもの。

 1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。

 これは、1894年の日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長、後藤新平が、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して以来の日本の国策だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。

 戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
 4人の首相は、全員麻薬売買を中心的に担い、右翼の「大物」と言われる児玉誉士夫等は、むしろアヘン売買では「小物」であり、4人の首相が麻薬売買の中心に居た。

 中国における麻薬の売人が、戦後4人も日本で首相になった、その理由としては、アヘン売買の利益が敗戦とともに日本に持ち帰られ、自民党「大物」政治家の権力獲得資金源になって行った可能性が、極めて高い確率で考えられる。
 侵略戦争の中核に居た人物等の末裔が、現在、政治権力の中枢に居るのは偶然ではなく、彼等の活動資金の源に理由がある。

狂人達の世界帝国建設の夢

 1932年、中国に侵略を続ける日本軍は満州帝国を建国する。満州の運営資金は、事実上アヘン密売業者里見甫が全て出資し、表側の満州帝国総裁が後藤新平であれば、裏側の総裁が里見であった。
 里見は中国大陸全土に及ぶ自分のアヘン密売網を侵害する者がいれば、直ちに惨殺する殺人鬼であり、アヘン密売の利益を全て満州建国に注ぎ込む私利私欲の無い指導者として、日本軍部の軍人皆の恐怖と尊敬の的となった。

 また関東大震災の混乱に乗じ、戦争に反対するアナキスト大杉栄とその妻を絞殺した警察官甘粕正彦も、満州帝国の治安維持責任者となり、里見と共に帝国の治安を乱す者を容赦無く惨殺する殺人鬼として二人三脚で活躍した。
 一方、甘粕は満州鉄道映画製作部を指導し、「中国大陸の新しい帝国を舞台にしたロマンチックな映画」を製作する「ひ弱」でロマンチックな映画青年でもあった。


[社会][経済][政治]韓流の問題点

一芸能人のつぶやきが、波紋を呼んでいる。韓流に対する素朴な疑問でさえメディアやその関係者によって潰される今の日本は、中共の報道規制をバカには出来ない。

茂木健一郎「韓流のどこが悪い」 フジテレビ「不視聴」を批判 J-CASTニュース 7月30日(土)

茂木健一郎さんのツイッターから

 俳優の高岡蒼甫さんがツイッターで「8は今マジで見ない。 韓国のTV局かと思う事もしばしば」などと韓流コンテンツを推すテレビ局を批判する発言をしたことをきっかけに、ネット上の一部ではフジテレビ「不視聴」 の呼びかけが広まっていた。これに対し、脳科学者の茂木健一郎さんが2011年7月30日、ツイッターでこうした動きを批判した。

■「みんなフジテレビみろ!」

 ツイッターで茂木さんは「地上波テレビ批判と、これ(編注:テレビの不視聴)は別。幼稚すぎる。韓流のどこが悪い。グローバリズムの時代だぜ。幼稚な自 国文化主義は、アホなだけでなく、日本をますます弱体化させるだけです」と持論を展開。次の投稿では「みんな、レベルの低いたわごとはいいから、猛勉強し ようよ。日本は、このままだと、三流国になるよ。いつわりの愛国主義、くだらない自己主張、誰もついてこない事大主義、ぜんぶ捨てないと、もう愛する日本 はダメだ」などと主張した。別の投稿で「みんなフジテレビみろ!」と述べてツイートをいったん切り上げた。

 これらの書き込みに対して、ネット上では「まあ一理ある。文句言うのはいいが自分達を高めないとあかん」という擁護意見もあるが、ほかの書き込みには 「韓流が悪いのではなく、韓流専門チャンネルか?というくらい韓流を流すことに(高岡は)批判しているんですよ。論点がずれていると思います」「(韓流コ ンテンツばかりの)ごり押しが嫌なだけであって自国文化主義とは関係ない」「ヒストリーチャンネルぐらい見ごたえがあればいいんだが」といった反論も出 た。

 これらを受けて、7月30日夕方、茂木さんは再びツイッターを更新。「高岡蒼甫さんの発言については、私は一切言及していません」としたうえで、「ぼく がよく理解できないのは、『韓流』を『フジテレビ』が『ごり押し』しているという感情が、一部の人たちの間に非常に強いらしいということ」だと指摘した。

■「好まない人は見なければいいだけの話」

  「ぼくは、民放というものは、基本的に経済原則で動いていると思っているので、いわゆる『韓流ブーム』の中での編成をしているだけのことではないでしょうか?」

 今の民放テレビ局は、ケーブルテレビやインターネットを含めた競争の中にあるから、「(たとえ)あるコンテンツを『押しつけている』というのが事実だと しても、それを好まない人は見なければいいだけの話」だといい、選択肢のひとつとして選ぶ自由があるはずだと書いている。また、「みんなフジテレビみ ろ!」という書き込みについては、「『不視聴運動』に対しての『対義語』のようなもの。テレビを見る、みないは、それぞれの人の自由なのは当たり前」だと 説明している。

 なお、今回の「高岡発言」騒動は2011年7月23日、高岡さんが自身のツイッターに「8は今マジで見ない。 韓国のTV局かと思う事もしばしば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど」と書き込んだことからはじまった。7月28日には所属事務所を退社した ことを明かし、同じ日には「正直役者をやる事はもう諦めてるかな」とツイッターで打ち明けている。翌29日には、突如ブログを立ち上げ、これまでの俳優人 生や今回の騒動の経緯を説明。ブログは自殺未遂や心の病気を告白するなど壮絶な内容だった。

浜村淳がラジオ番組で高岡蒼甫を批判するも、韓流絶賛で逆に反発の声 J-CASTニュース 2011/7/30 

メディア擁護派、即ち韓国利権関係者やメディアに洗脳された人間による論点のすり替えや的外れな反論は、以下に代表される。


  • 「韓流以上の人気と実力を持てば良い」
  • 「日韓友好を阻害するな」
  • 「韓国を差別するな」
  • 「韓流が嫌なら、見なければいい」
  • 「韓流ばかりではない」

◆まずは、「韓流以上の人気と実力を持てば良い」だが、これは"本当のブーム"であればとの条件が絶対に必要となる。

しかしながら、最近の出来事だけをみても、偽物のブームとの結論しか出ない。

当日記内関連記事:ブーム

2012年5月8日火曜日


「高齢化をとらえる上で重要なポイントは、長生きすることよりも、より幸せに生きるという視点を持つことだ。・・・隔離された高齢者の世界を形作るのは魅力的な選択ではない。・・・生涯で60−70年におよぶかもしれない勤労期間において3つか4つの異なる職種に就けるような制度が必要だろう」。(J・カフリン)

2012年5月6日日曜日


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2012年5月4日金曜日



●ところで、ヒトラーの国家的な健康管理は、想像以上の効果をあげていた。

当時のドイツの医学雑誌は、食物や飲み物の中の人工着色剤や防腐剤の悪影響について警告し、薬品、化粧品、肥料、食物についても、有機的で自然な素材のものに戻るように力説していた。ヒトラーの侍医であったテオドール・モレルは、殺虫剤のDDTは無効であるばかりか危険であると断言し、健康に対する脅威であるという理由で、1943年まで配布を延ばさせた。また、ナチスは党の事務所や待合室など、公共の場での喫煙を禁止した。

特効薬や抗生物質がまだ見つかっていなかったこの時代、日本人の多くは当然のように結核や感染症で死んでいったが、ナチス・ドイツは保健事業による公衆衛生の向上で、既に感染症を克服していたのである。

 


ナチスが作成した
反タバコ運動のポスター

ナチスは世界最大規模の反タバコ運動を
展開して、タバコの撲滅を目指した。
ナチスは党の事務所や待合室など、
公共の場での喫煙を禁止した。

 

●更にヒトラーの国内での人気を高めたのは、経済政策と並ぶ対外政策の成功であった。

ヒトラーはまず1933年10月、国際連盟と軍縮会議から脱退する。ヒトラーは言う、「いかなる権利も平等も持たないこのような機構の一員として名を連ねることは、名誉を重んじる6500万人の国民とその政府にとって、耐え難い屈辱である」と。
 
国際社会に背を向けるこの外交的ギャンブルは、しかし、第一次世界大戦の敗戦国としてベルサイユ平和条約の過酷な条件に屈辱感を抱き続けてきた国民を熱狂させた。


●20世紀最大の哲学者の一人として名高いマルティン・ハイデガーは、学生に語っている。

「総統をして国際連盟脱退に踏み切らせたものは、野心でも、激情でも、盲目的な我執でも、暴力への欲求でもない。それはドイツ国民の運命を支配するにあたって無条件に責任を負おうとする明白な願望以外の何物でもない。」

この世界的な哲学者は、ヒトラーを賞賛し、ナチスへの共感を積極的に表明した。彼は1933年にナチスの後ろ盾でフライブルク大学の学長に就任すると、ナチスに入党。大学からユダヤ人を排除した。(ハイデガーは1945年のナチ崩壊に至るまで一度も欠かすことなく党費を納め続けていた。彼の党員番号は第3125894番である)。

彼は戦後になってからも、かつての言動を反省する様子を見せず、ユダヤ人虐殺の惨事にも終始黙否し続け、厳しく糾弾された。なぜハイデガーがヒトラーに荷担したのか? 学問レベルでの論争もいまだに続いているが、ハイデガーとナチスをめぐる謎は明らかにされてはいない。

 


20世紀最大の哲学者の一人
マルティン・ハイデガー

ナチスに入党し、ヒトラーを賞賛。
ナチスへの共感を積極的に表明した。

 

●1935年春には、それまで国際連盟の管理下にあったザール地方が、住民投票で91%の賛成を得てドイツに復帰。

更に翌年にはラインラントの無血占領に成功。そして1938年には、オーストリア国民の圧倒的支持を受けてのオーストリア合併に成功。そしてその半年後にズデーテン地方を併合した。

このようにヒトラーは、わずか3年のうちに、ヨーロッパのドイツ語圏の全ての地域を手に入れてしまったのだ。しかもその領土拡大は、背後に常に戦争の危険をはらみながら、全く無血のうちに行なわれた。フランスやイギリスは、専門家の誰もが予想した武力介入を一切行なわず、むしろ暗黙の了解を与えてしまったのである。

 

2012年5月2日水曜日


【11月28日 AFP】スーダン南部ジョングレイ(Jonglei)州に暮らすアルアル(Alual Koch)さんが銃を使って人を殺すことを覚えたのは、13歳の時だった。36歳の今、スーダン内戦のゲリラ兵として活動した時期については無表情で振り返るアルアルさんだが、家族を支えるための現在の「闘い」に話が及ぶと、目から涙がこぼれ出す。

 21年に及ぶ内戦が2005年に包括和平合意に達したあと、アルアルさんは看守の職を得た。同じくゲリラ兵だった夫を戦争で失ったアルアルさんは、29人の親類や子どもたちを、500スーダンポンド(約2万1000円)というわずかな月給で養っていかなければならない。

2012年5月1日火曜日


第4章 ビジネスに必要な法律の基礎

この章では、ビジネスを展開していく上で必要になる法律に関して、簡単に紹介します。

1.ビジネス関連法の体系

【質問】
事業を運営するには様々な法律が関係してくると思いますが、どのような法律に留意すべきでしょうか。

ポイント

  • (1)会社経営に法律が必要な理由
  • (2)会社に関する法律の分類
  • (3)業務活動に関する法律例
  • (4)会社組織に関する法律例

アンサー

(1)会社経営に法律が必要な理由
我々は一定の秩序の中で社会を形成しなければなりません。各自が好き勝手に振る舞えば他の人の自由や生活が侵害されてしまう可能性が高くなります。人の内面には道徳心が存在し、それが無秩序を防止しているのも事実です。しかしそれだけでは人により、判断基準も異なるため、整理された共通のルールとして法律が、人の財産や権利を守り、秩序を維持するために必要になります。会社も法人として、法律的に人格が認められたものであり、様々な社会的活動を営む上で、法律と密接に関係してきます。
(2)会社に関する法律の分類

会社に関する法律は「業務活動に関する法律」と「会社組織に関する法律」とに分類できます。

次にそれぞれどのような法律を指しているのかについて例示します。

(3)業務活動に関する法律例
活動領域 主な関係法律(及び例)
公法(注1) 私法(注2) 社会法(注3)
労務 税法(所得税、地方税等) 民法、商法 労働基準法、健康保険法、男女雇用機会均等法
財務・経理 税法(法人税、地方税、登録免許税等) 商法、手形・小切手法、不動産登記法、民法 外為法
購買 税法(消費税、印紙税等) 民法、商法 下請代金支払遅延等防止法、独占禁止法
生産・研究開発   特許法、不正競争防止法 公害紛争処理法、環境基本法
販売 税法(消費税、印紙税) 民法、商法 不当景品表示防止法、訪問販売法
  • (注1)公法とは、法の規律を受ける当事者のうち、双方または一方が国家機関である場合の法律です。
  • (注2)私法とは、法の規律を受ける当事者の双方が私人に適用される場合の法律です。
  • (注3)社会法とは、社会の発展に伴い、社会的弱者の保護等、一定の見地から国家の積極的な干渉を根拠づける法律です。

以上、公法、私法、社会法の区分は必ずしも厳密なものではありません。

(4)会社組織に関する法律例
事項 主な関係法律例
設立 商法、民法、商業登記法、各種業法
機関 商法、民法、商業登記法
資金調達 商法、証券取引法、民法、工場抵当法、不動産登記法
計算 商法、証券取引法、法人税法
合併 商法、独占禁止法、商業登記法
倒産 商法、和議法、会社更生法、破産法、商業登記法
【アドバイスポイント】
会社経営には様々な法律が関係してきます。全てを独力でフォローするのは難しいので、必要に応じて専門家を活用する。

2.株式会社の機関構成

【質問】
株式会社の機関構成は、なぜ複雑になっているのでしょうか。

ポイント

  • (1)株式会社の根本原理(所有と経営の分離)
  • (2)機関の分化

アンサー

(1)株式会社の根本原理(所有と経営の分離)
株式会社制度は株式を発行して間接有限責任しか負わない多数の人間から出資を受けることができる法人です。一般的に多くの株主は日常的に集合して会社の運営に当たることは困難であり、また、会社経営を直接行う意思や能力を持たないので、会社経営を合理的に運営するという観点から、所有と経営の分離が行われます。会社の実質的な所有者である株主は、必要最低限のことを株主総会で決定し、会社の運営は他の機関に任せることとなります。
  実際にはオーナーが100%出資し、経営に当たるという所有と経営が一致するケースの方が多いと考えられますが、我が国の商法ではこのように上述のような考え方に立ち、所有と経営の分離に備えています。
(2)機関の分化
会社の機関を取締役に任せきりにしてしまうと権限が強大になり過ぎ、権限濫用のおそれが生じます。そこで監査役制度を設け、取締役の業務の執行が確保されることを制度的に準備しています。
  また、取締役が、取締役会の機能と代表取締役の機能に分化しています。業務を執行するには複数者の合意が必要ということであれば煩雑になり過ぎるため、代表取締役に業務執行の権限を与えています。しかし、慎重かつ適正な経営の確保の観点から取締役会という合議体を設置し、代表取締役の監督と一定の重要度を持つ意思決定については、取締役会の決定が必要とされています。

■株式会社の根本原理(所有と経営の分離)

■機関の分化

3.契約の成立

【質問】
口頭での約束しかしていないならば契約は成立したとはいえないと思うのですが、どうでしょうか。

ポイント

  • (1)契約とは?
  • (2)契約が成立する時点
  • (3)契約の成立要件
  • (4)契約の有効要件
  • (5)代理人との契約
  • (6)用語解説

アンサー

(1)契約とは?
契約とは、2人以上の当事者が合意することにより成立する法律行為(法によって行為者が希望する通りの法律的な効果が認められる行為)のことをいいます。
(2)契約が成立する時点
契約は双方意思の合致により成立します。文書による取り決めがない、いわゆる口約束でも契約は成立します。しかし、口約束だけでは「言った」、「言わない」、「約束した」、「約束していない」というトラブルに巻き込まれる可能性があるため、必要に応じて文書による契約書の作成をすることが重要となります。
(3)契約の成立要件

契約の存在が承認されるための要件を成立要件といいます。成立要件としては以下の3つが挙げられます。